<a href='https://photos.google.com/share/AF1QipNmwVQqSuJ9S19R_5nR7H78W9K-8lDKvM9CZ3zzX6YnX3uskLxuM4oIgp4LeLrxIg?key=MklicjRFQ0dleC1oTVhaSkdxSjRPRkh6bS1pOXZB&source=ctrlq.org'><img src='https://lh3.googleusercontent.com/1411p8L26W8bkz85y7FRWx3o0EVJ0a5uNd9W6hNGilh-3Gw3cHQCFcvjnSTdXLPfv-07IwoT9NPs9AzGTY5FMYvSD4nyxiR2ia6UlFbOV2cBV6QiwFvgEd6nx2zS_U2YKJK6reRxng=w240' /></a>
034.pdf | 寺報34号 | 2016/05/15 | 前住職の葬儀等 |
033.pdf | 寺報33号 | 役員総会、但馬七花寺巡拝 |
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南禅寺・眞乗院 | 塔頭の眞乗院は山名持豊公が開かれた | http://www.nanzen.com/ | |
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ブロック型プラグイン
★★★☆☆
#block( [clear[:right] [:left]] [,w[idth]:数値[CSS単位]] [,height:数値[CSS単位]] [,[left] [right] [center]] [,around] [,class:[@]クラス名] [,font-size:数値[CSS単位]] [,round] ){{
[複数行引数]
}}
複数行引数の内容を<div>で囲まれたブロック要素へ出力します。
複数行引数の内容は通常の通りWiki書式として整形されます。
クラス名にはデフォルトで "@round", "@info", "@caution", "@ban" が用意されています。
"@round" は他のクラスと組み合わせて使用できます。
新たにCSSクラスを追加したい場合は、html側xpwikiインストールディレクトリ/skin/css/block.css に(存在しなければ作成して)記述します。
記述方法は、trust側/modules/xpwiki/skin/css/block.css の "$class div.block_round" あたりを参照してください。
引数を省略するとCSSで clear:both 相当、 "left" は clear:left 、"right" は clear:right 相当です。
正安三年辛丑八月廿五日に一族山名新次郎行直同中務丞俊行同三郎五郎為俊等将軍家の仰を背き叛逆を起すによりて誅戮せらる。是によりて其一跡を以て義俊に宛行わる
と、ある。行直(ただ)、俊行、為俊等とあるから、山名忠俊もその係累なのであろう。参考までに『尊卑分脉』山名系図を後載する。
ところで『山名家譜略纂補』の『当家末流之称号畧』の項に、『宮田、田中、三上、大坂、八橋、海老名、清水、有路』と、ある。しかるに山名藩家老池田家御所蔵の「山名系図」には、氏清の次男満氏に河口参河守と後付けしている。これが事実ならば河口家は「当家末流之称号」の中になぜ入っていないのか。それは、満氏の子清家が江津和泉守となって、又名字を変えたからだ、と言う人があるかもしれない。
しかし、『山名家譜略纂補』の系図は、満氏の所を、
[添付]
と、書き足しているのである。
満氏の河口参河守は晩年の官途だったのであろうか。又、民部少輔教泰や村氏は河口氏を名乗ったのであろうか。そ
れとも山名氏を名乗ったのであろうか。満氏が民部少輔であったことは確実だから、民部少輔氏清の嫡流を継いだと考えれば、その子孫は山名氏を名乗っていて然るべきである。
この文書は延徳二年(一四九〇)に備後守護山名俊豊が備後の国人山内大和守豊成に宛て栖眞院領四方村を栖眞院の直務支配とすることを通知したものであるが、この栖眞院が南禅寺の塔頭であることは前述した「蔭凉軒日録』の長禄二年(一四五八)八月四日条に「南禅寺栖眞院領」とあることによって明らかである。
では栖眞院領四夕村の在所はどこであろうか。これについては延徳二年六月二十八日付栖眞院真崇宛山名俊豊書状に
「御院領備州泉田内三ヶ村御代官職事、就山内大和守と三吉涌喜上野介相論之儀、可有御直務之由、以前承候之問、其分申定候き……」
とあり、この三ヶ村が備後国憲蘇郡泉田庄内(現、広島県庄原市)にあることがわかる。
同年六月五日栖眞院真崇は山内豊成を、遠碧院請地山門千手堂領備後国四ヶ村代官職に補任し、豊成に毎年一九一貫文を公用として寺納するよう通知し、また同日付けで四ヶ村の公用と三吉涌喜方が連年未進していることを述べているので、この四ヶ村が本来は山門つまり近江国の延暦寺千手堂領であったことがわかる。それを山名持豊が兄満時の菩提所南禅寺栖眞院請地とし、南禅寺栖眞院領としたのである。
これより前、享徳三年(一四五四)九月五日には栖眞院主宗坡により山内次郎四郎(泰通)に対し、山門領備後国
西條四方村代官職が補任されている。
山名持豊は文安元年(一四四四)三月十二日に山内素通の父時通(上野介)と次の通りに契約している。
山門領備後国四ヶ村栖眞院請地之事、従院主代官職契約之旨、令存知候、公用等厳重致取沙汰、於在所者、守補任之旨、可被申付候状如件 (持豊) 文安元年三月十二日(花押) 山内上野介殿
明徳四年(二二九三)十月一日、山内通忠は延暦寺により山門根本千手院領備後国憲蘇西条河北以下四箇村の所務職に補任されているが、この備後四ヶ村が泉庄(泉田庄)を中心に所在したと考えられる。
満時は但馬・備後・伯耆・因幡・石見・安芸・伊賀等の守護職を帯した山名一族の惣領父山名時熈(常熈)に先立ち早世した。この事が将軍義持の持熈(満時の弟)支持、ついで将軍義教の持豊(持熈の弟)支持となり、持熈と持豊の対立抗争になり、さらに持熈の大覚寺義昭(義教の弟)への接近に発展し、ついに持豊が山名一族の惣領となった。
その持豊は兄満時の余徳をうけて山城国南禅寺栖眞院領を媒介として分国経営の一助としている。
(平成五年「一九九三」如月成稿)
赤松氏といい山名氏といい、発祥以来数百年の生命は現に今、脈々として息づいているんだなあ。“歴史の波に没し去った過去の名族”と受けとっていた私の考えのまあ、何とあさはかなことよ」
そうした尊いお心を戴して、今回の仕事もそれ以後に続く鎮魂供養のお勤めも、私心を離れて奉仕しなければ申訳ないと、思いを新たにしたものであります。
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