悔恨
謡曲に「山姥(やまうば)」と言うのがある。と言っても私はその方面に全然無知な者だが、ふとその中の一節が浮かんできたから、取り上げたまでのことである。
『寒林に骨を打つ霊鬼泣く泣く前世の業を恨む。 深野に花を供する天人かえすがえすも幾世の善を喜ぶ。』
それはこんな故事による。
遊行(ゆぎょう)者がいた。遊行と言っても花見かなにかの行楽を連想されそうだが、これは一所不在、不惜身命の求道者のことである。道端に屍体がひとつ横たわっていた。
側にすざましい形相の鬼が立っていて、杖で何度もその屍を打ちすえている。不審に思って尋ねる遊行者に、鬼は涙を流しながらこう答えた。「この屍は私の体なのです。
この私は生前、父母に仕えず、君に忠ならず、三尊(仏法僧)を敬せず、師父の教えに従わず、そのために悪道に堕ちて日夜責苦に苛まれる身の上となりました。腹立たしいやら、口惜しいやらで、暇を見つけてはこうして、私が私を苛んでいるのです」遊行者は言うべき言葉も見いだせず黙して去った。
花野でまた一つの死体を見た。今度は麗しい天人がそのうえに花を撒き、遺体をいとおしげになでさすっていた。天人は言う。
「私は生前、つとめて父母に順孝、君に忠実、三尊を奉敬、師父に忠信でした。おかげで天界に生まれるという果報を得ました。それでこうやって感謝気持ちを表しているのです」
此の寓話から色んなことが引き出せる。
昔のインドの人々が考えていた死後感とか霊魂感がうかがえようし、倫理道徳感も知ることができる。また、遺体の葬法などという民族学的な方面からみても興味深いものがあろうが、それはさてお き、私は思うのだ。
私の毎日は悔恨臍(ほぞ)を噛むの連続ではないだろうか。家庭内でもそうだ。対外的にも後悔することばかりだ。
まし て、道を求めることにおいて然りだ。伝教大師は若き日に自分を顧みて「愚が中の極愚、狂が中の極狂、塵禿の有情、底下の最澄」と嘆じられた。私の悔恨がその場限りでなく、真底からの嘆声でありたいものだと願うのである。
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