前書きに代えて anchor.png

この度、前住職の手による「平成版 法雲寺縁起」が刊行されることとなりました。書名の通り本書の内容は法雲寺の前身とされる臨済宗の禅苑の成り立ちから始まり、江戸時代に藩公菩提寺と定められた日蓮宗法雲寺の時代、そしてその後、何等かの事情により再び宗旨を天台宗に変更した天台宗法雲寺の時代と……それぞれの変遷に関し既存の史料に加えて、新たに法雲寺と同時期に日蓮宗から天台宗に転宗された(させられた?)ご寺院から提供頂いた史料を加えて、時系列順に再整理した「法雲寺史」的なものとなっております。
余りよくは知られては居ませんが、法雲寺(の前身)はこの村岡が黒野村と呼ばれる以前から、臨済宗の禅苑としてこの地に存在して居たようです。それが江戸時代前期(寛永年間1642年)に、旧藩都の兎塚村から荒れた川原が広がる当地に藩都を移し、それに伴い法雲寺は山名公菩提寺と定められ、村岡と名前を改めた当地の城下町の真ん中に据えられました。それから幾多の変遷を経て今日まで約370年。
法雲寺の辿った道のりは、寛永時代のニュータウンである村岡の町(大字村岡)そのものが歩んできた足取りと大半が重なります。
そんな意味でも、本書は法雲寺檀徒の皆様を始め、城下町村岡の歴史についてご興味をお持ちの方々には是非ともご一読頂ければと思うところです。
しかし、まだまだ本書を以て法雲寺史の決定版とは言えません。今現在入手出来る範囲の史料をつなぎ合わせて一つの道筋を示した迄の事です。本書掲載内容に違和感等が御座いましたら、今後の参考とさせて頂きますので、法雲寺へ御提言願えれば幸いです。

日本国中の小規模町村が日に日に活力衰退しているかのように思える今日、本書が我が町「但馬村岡」の過去・現在・未来を見つめ直す切っ掛けの一つにでもなればと願って居ります。

以下に時代背景等に関する私なりの補足を若干付け加えます。法雲寺縁記を読まれる際の参考として頭の片隅に置いて頂けば幸いです。

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寛永時代の時代背景 anchor.png

法雲寺と言う名が記録に見られるようになるのは、村岡山名の菩提寺と定められた寛永19年(1642)からのことです。時代は天下分け目の「関ヶ原合戦」から40年が過ぎ、戦国時代は二昔以上も前の事で、豊臣政権を経て、徳川幕府の時代。
その徳川将軍も家康公から秀忠公を経て三代家光公の世。また、法雲寺を村岡山名菩提寺と定めた山名矩豊公も村岡山名の三代目。共に関ヶ原以降の生まれで、戦国を知らずに育った世代が、世の表舞台に顔を出し始めた頃です。
この頃までに徳川幕府は、江戸時代を通じ現代にまで影響を与える各種の制度を確立しています。江戸の文化を地方に伝搬し、諸国の物流を活発化させた参勤交代制。檀家制度の基礎となった寺請制度。その他にも禁中・宗門・公家・武家に関する諸法度も制定しています。勿論、これらは徳川幕府の支配体制を盤石とする為に定められたものでしょう。戦国時代は「武力こそが世を治める」と言う時代でありましたが、江戸時代に入ると世は変革より安定を求め、武力を後ろ盾とした治世から「理によって世を治める」時代へと変貌していった頃でもあります。「力こそが全て」の時代から「法秩序に従った時代」への転換期でも有ったのではないでしょうか。

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村岡山名と藩都移転事業 anchor.png

村岡山名は鎌倉幕府成立時から続く清和源氏の名流として、徳川幕府でも重んじられ、吉良氏等と同じく大名待遇の旗本として将軍お側の役を担いました。しかし石高は6700石と小禄でした。名流として重んじて頂けるのは名誉なことですが、大名級のお付き合いはせねばならず、しかし懐具合は万石大名のようには行かずで、決して豊かとは言えなかったと想像します。
そんな中、寛永19年に参勤交代で領国入りした矩豊公は、時代の転換期を迎えるに当たって長年温めてきた藩政改革を推し進めます。その最大の課題は、太古の昔から地域の中心であった兎塚村に置いていた陣屋を荒れた川原が広がる黒野村という小集落に移し、そこに城下町の形式を備えた村岡町という新しい町を作り出すことでした。
藩政の中心である陣屋と、藩の精神的な支柱である藩公菩提寺を結ぶ線を縦軸として、その周囲に規則だった街並みを整備し、将来的な藩の発展を考えた訳です。
この村岡城下町建設は正に「寛永時代のニュータウン建設」と言えるのではないでしょうか。当然、街作りですから、陣屋や菩提寺の他にも家臣にはその待遇に応じた住まいも提供せねばなりません。武家だけでは街として成り立ちませんので、民家も無ければなりません。
元々村岡の地は二つの河川が合流して出来上がった川原場です。川を上手く管理し平坦な土地を少しでも多く取らねば街としての発展は期待出来ません。それ故、湯舟川と昆陽川の護岸と川原の埋め立てが最重要の課題となります。
豊かな藩であるならば、建物等は新築新品で対応するでしょうが、小藩小禄の上、河川工事が優先の状況では、再利用可能なものは出来る限り有効活用して、初期の村岡城下町を形作って行ったのではないでしょうか。

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菩提寺は新寺建立か、既存寺院の流用か anchor.png

村岡には法雲寺の他に2件(厳浄寺・大運寺)のお寺があります。この二ヵ寺は、山名家家臣や町人等の菩提寺として城下町建設が始まった数年後に、藩内の10キロ近く離れた集落から移設されて来ています。幕府の当時の宗教政策は寺院の統廃合を進めていた時期であり、たとえ藩公菩提寺と言えども新寺建立は難しく、また、経済上の理由からも、既存寺院を再利用したと考えるのが自然ではないでしょうか?
では、どのお寺を再利用したのかですが、3代矩豊公以前の時代、初代・2代の時代に兎塚村の近くで菩提寺の役を担ったお寺(安養寺)があります。普通考えるならば、この菩提寺をそのまま新しく作る城下町に移転するのが一番当たり前のことと思えるのですが、そうはせず、このお寺は現在でも兎塚にそのまま残っています。
旧菩提寺を何故、新城下町に移さなかったのか?
それは、その必要が無かったから……新しい城下町の予定地近くには、菩提寺に利用出来る別のお寺が既にあったからでしょう。
そのお寺が「創建不詳の臨済の禅苑」(法雲寺旧梵鐘の銘文)であり法雲寺の前身であった。そして、本書ではこの名称不明のお寺の名前は、村岡町史で『幻の寺』と記された『報恩寺』では無いかと述べています。
確かに法雲寺には山名公以前から所有する飛地境内(観音山墓園)や、同じく山名公以前から伝わっていた仏餉田(現在の村岡地域局周辺)がかつては有りました。これらは山名公菩提寺となる以前からお寺があったという傍証と言えます。
まあ、一般的には法雲寺の前身が「報恩寺」でも「名称不詳の禅苑」でもどちらでも良いことですし、現在に何の影響も無いことです。しかし、創建不詳では記録に残る1642年を法雲寺の始まりと為ざるを得ず現在まで約370年余り。これが「報恩寺が前身」となれば1375年創建にまで遡りますから640年。ほぼ2倍の歴史の開きとなります。お寺を預かっている立場としては、チョット軽く考える訳にはいかないところです。

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余談ですが・・・ anchor.png

余談ですが、『法雲寺』・『報恩寺』をカタカナで書きますと『ホウンジ』・『ホウンジ』と「」と「」が一文字違うだけ。言い間違い、聞き違いのレベルです。(実際、電話口でよく報恩寺と間違われます。)どうですか?何となく「報恩寺」→「法雲寺」と、そんな気になってきませんか?
「法雲寺の前身」=「幻の寺・報恩寺」のご判断は、各自にお任せ致しますが、先ずは本書の頁をめくってご一読ください。

平成27年7月 但馬村岡 法雲寺第20世 廣隆 識

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