特別寄稿

山名氏四代の栄光 anchor.png

永島福太郎

山名氏は十四世紀半ばから丹波から石見に至る山陰道に雄飛、但馬・因幡両国を二世紀にわたって確保、室町将軍家重臣の四職家(侍所所司家)の一つとして輝いた。徳川将軍家は山名氏が武門の名家であり、ともに上野新田氏のこうけ後裔という関係もあって、これを高家衆(大名の格)として遇し、乗地には故地の但馬七美郡内を与えた。江戸後期には村岡藩が成立する。
但馬の歴史は、しばらく山名氏とともに歩んだし、近代但馬の発展の基礎は山名氏の治政によって築かれたといえるのである。明徳の乱(一三九一)の六分一殿山名氏清、応仁の乱(一四六七~七七)の赤入道山名宗全はいわゆる「天下分け目」の合戦の大将として史上有名である。

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山名氏の起こり anchor.png

清和源氏の八幡太郎義家の三男の義国は下野足利郡内に土着した。当時、北関東の両毛地方には藤原秀郷の子孫が繁栄していた(嫡流は佐野氏)。義国の長男の義重は渡良瀬(わたらせ)川を渡って上野新田郡に入って新田氏、次男の義康は藤姓足利氏に代って足利庄を領し足利氏を称する。なお、新田義重の長男の義範は多胡郡山名郷(高崎市)に入った。ちなみに、三男の義兼が新田氏を家督、四男の義季が徳川氏の祖となる。山名氏の家祖の義範は源頼朝の御家人になり、伊豆守護に任ぜられたが、子孫の出世は花ばなしくはない。新田・足利両氏とも雌伏時代だったのである。
王政復古活動の元弘の乱(一三三一~三三)に新田・足利両氏が活躍、脚光を浴びる。山名氏の政氏・時氏父子が足利高氏の西上軍に從って上洛したのが山名氏の出世となる。山名一族は新田義貞に從つた者もあったろうが、高氏に属したことが山名氏の雄飛につながる。

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六分一大名 anchor.png

王政復興の建武中興が破れ、南北朝動乱が始まった。足利尊氏の幕府開設に山名時氏(一三〇三~七一)は協力、建武四年(一三三七)伯耆守護に任ぜられ、山陰道の平定を命ぜられた。康永二年(一三四三)には丹波守護になるが、但馬の見開山城の新田義宗を攻め、南党の太田垣・八木・三宅・田結庄(たいのしょう)らを誘降している。但馬・因幡は南朝勢力の強いところだったのも一因、足利尊氏・直義兄弟の確執もからんで時氏は南朝に一時降参している。山陰道の確保をはかる時氏としては、但馬でその勢力路線が切断されているのを憂慮、完全掌握を期したのである。南朝からは丹波,但馬・因幡・美作・備中・備後などの守護に任ぜられ、貞治二年(一三六三)に二代将軍義詮のもとに帰参のさいは侍所頭人家(四職家)に列し丹波・丹後・因幡・伯耆,美作の五ケ国守護に補せられている。山陰道大将の重任を帯びていたのがわかる。応安四年(一三七一)、時氏は死没し、長男の丹後守護師義は病弱のため、四男の氏清(一三四四?~九一)が家督して丹波、次男義理は美作、三男氏冬が因幡、五男の時義が伯耆を治める。おりから、管領細川頼之の補佐で三代将軍義満の大名制圧が始まっていた。翌応安五年に氏清に丹後・出雲を追加、時義が但馬守護に任ぜられた。惣領の丹波守護氏清にではなく、弟で領国の接続しない時義(師義の養嗣子)にこれを与えた将軍家の遠謀深慮がうかがえる。なお、氏清に先んじて時義を侍所頭人(所司)に補する。氏清と対立する謂(いわ)れである。
義満は氏清を和泉、兄の義理を紀伊守護に充てる。これは南朝牧束に尽力させるためだが、氏清を侍所頭人に補するなど、氏清・時義兄弟を競わせた感がある。なお、時義は備後守護に任ぜられ、山名氏は瀬戸内に進出した。山名一族の守護領国は十ケ国をかぞえる。
康応元年(一三八九)三月、将軍義満は嚴島詣を決行した。讃岐に退隠していた管領家の細川頼之を訪い、諸大名制圧策を諮るためもあった。山名氏が槍玉にあがった。南海道大将の細川氏としては、山名氏が和泉・紀伊および備後に進出したのは好ましくない。南朝攻略に起用したのだが、瀬戸内を掌握される懸念がつのった。嚴島詣に時義は病床に在ったため、嫡子の時熈に接待させた。これで将軍義満の不興が噂された。間もなく時義は没するが、時熈の家督は許されない。これに氏清が介入、但馬守護を獲得した。なお、伯耆守護は師義の三男満幸が兼ねた。翌明徳元年に備後守護を細川頼之が握るが、氏清・満幸とともに時熈・氏之兄弟の追討を命ぜられた。この功で満幸は出雲,隠岐の守護に任ぜられる。

ちなみに、山名一族の領国は十一方国に達した。惣領氏清の威令もほぼ一族に徹底することになった。しかし、将軍家では山名氏制圧の謀略をめぐらしている。氏清を反乱に追いこむのである。

山名氏は時氏で世に出た。時氏は出世すると、将軍家の足利氏に対抗する意図も生じたらしい。一族だが、新田氏の流れである。南朝に一時從属したのも、この対抗意識のせいといえるかもしれない。時氏が足利将軍家に帰参、それが処罰もうけず、重臣として遇されたことは世評も芳しくなかった。もちろん、警戒されるし、一家内訌をうながす魔手も及んできた。しかし、山名氏は領国拡大に驀進する。将軍家への対抗意識が猛進の原動力だったことであろう。

氏清が六分一殿といわれたのは、日本全国六十六が国のうち十一方国を領したことにたいする軍記もの記者の賛辞らしい。領国の数からいえば将軍家にまさる。しかし、領国は質が問題である。

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明徳の乱 anchor.png

明徳二年(一三九一)三月、管領斯波義将が引退、前管領の細川頼之が復帰した。出家の身なので弟の頼基が管領に任ぜられた。大名制圧で将軍家権威の高揚をはかる頼之の登場で山名氏が動揺した。出雲守護山名満幸が同国に在る仙洞御領横田庄を横領する罪科で罷免、丹波に蟄居(ちっきょ)を命ぜられた。丹波は氏清の領国なのだから不思議な処置だった。一方、処罸流浪中の時熈らが赦免を出願している。

同十月、氏清は将軍義満を宇治の別邸に招いた。紅葉狩の興だが、堺から上洛の氏清の到着が遅れ、義満が空しく帰還するという不都合が生じた。道中、浪人の満幸が氏清に処罸必至を説き、蹶起を勧めたという。氏清は堺に帰還、紀伊守護の義理を説いて反乱、同十二月に和泉・丹波の両方面から進軍、将軍家に決戦を挑んだ。内野(大内裏跡)が主戦場、大宮通りで合戦する。
氏清は敗軍、六分一大名山名氏が潰滅する。氏清が南朝に通謀したという噂が流れたが、これも将軍家側の宣伝であり、南朝牧東に利用したのである。この山名氏清討伐で将軍家の権威は確立、翌三年に南北両朝合体が実現する。

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山名時熈の功業 anchor.png

山名時熈(一三六七~一四三五)は内野合戦に奮闘、但馬守護と惣領職とを給わった。弟の氏之は伯耆守護を授かり、同志の從兄弟の氏家は許され因幡守護を保った。山名一族は連坐罪科は免れ、但因伯の地続き三国の保有が許された。足利将軍家は、大大名を誅伐するが、徹底絶家には至らず、これを赦免して名跡を存しているのが特筆される。大内・赤松氏らも同例である。

時熈は山名氏を再興するし、守護大名山名家永続の基礎を築いたのである。時流を洞察、これに乗ったといえるが、なお時氏・氏清両先代の余光のおかげだといわねばならない。山陰道大将として室町幕府創業に貢献した山名一族の名声が時無の出世をたすけたのである。

時熈は三管領家に次ぐ四職家として室町幕府の七頭政治の一員に列し武家政治を推進した。なお、将軍家貴族専制政治の義満・義持の隠居政治(側近政治)や義教の武断政治にも重臣として参じた。四職家はしょせん三管領家の下位だし、貴族専制政治と武家政治との矛盾撞着がしきりに露呈する。時熈は武功もあげるが、時に隠忍自重、難局をも巧みに克服した。応永八年(一四〇一)には大内義弘の旧領備後守護を給わり(堺の乱)、亡父の旧領を復したし、瀬戸内に進出することができた。時熈は但馬国人の太田垣通泰を守護代として入部せしめた。ちなみに、山名氏は上野から大葦・垣屋・小林らの国人を引連れて上洛した。時熈時代、垣屋同族の土屋遠江入道が但馬守護代となった。山名氏の四天王といわれたのは垣屋・太田垣・八木・田結庄であり、垣屋氏のほかは但馬国人である。ほかに田公・伊帙・安田・長・三宅・神床(一宮社家)らの国人が從つた。ただし、朝倉(八木らと同族)・伊達らの旧族は国外に去っている。次代の宗全が君寵を誇る政所執事伊勢貞親を弾劾し、将軍義政に一戦も辞さずと呼号して蹶起したとき、老臣十三人衆が諌止したと『応仁記』に見える。四天王のほかは上記の国人らであろう。室町将軍家全盛時代、その重臣として時熈が輝いたので、賊臣氏清の遺児ら一族も出世した。国元の家臣らも外様・譜代を問わず、これを誇り、此隅山(子盗山)城(出石町)に忠勤したのである(唐物茶碗も売買した九日市庭にも築城か)。下剋上の世が到来するが、山名領国はしばらく安泰だった謂れである。

しかし、時熈は晩年、吉凶波瀾重畳の荒波にもまれた。黒衣宰相の三宝院満済准后に好まれ、長寿が幸いして重臣最長老として遇されたのは幸運だったが、応永二十七年に長男の修理大夫満時(栖眞院殿)の夭折に遭い、次いで出家して巨川常熈と称する。家督は次男持熈が君寵を得ているのにたいし、時熈は三男持豊(宗全)を愛したため決着はつかない。時熈は将軍義教時代、大病を病み抜いて元気となり、重臣最長老として活動した。永享三年(一四三一)に持熈が義教の勘気に触れて失脚したのもむしろ幸いだったし、翌四年には周防大内氏の内訌を威圧するため安芸・石見守護、同五年には伊賀守護に任ぜられた。五ヶ国持ちの大名となった。

当代、三管四職の重臣家には正月に将軍御成りが恒例となるし、重臣らは将軍家に参賀、歌会や茶・能楽の会に参仕、また将軍家の社寺詣や諸家御成りに陪する。時熈は和漢の教養に秀れた。とくに教学を禪僧から授かったのが文化教養人として知られるゆえんである。これらに関しては別項に述べる。なお、永享四年(三号船)・六年(四号船)には遣明船を授かっている。貿易品としては、但馬で銅が産出、これを備後で積みこんだのが知られるが、なお硫黄その他を買いこんで彼地に送り、そして唐物を獲得するのである。もちろん、時熈が富裕だったことだし、これでまた富裕倍増といったかたちである。この購入硫黄の件で、官物横流しの疑惑が時熈にかかった。時熈は老衰ということで出頭を避けたり、結局は有耶夢耶にすることに成功した。さすがの将軍義教も比叡山僧兵弾圧などに山名氏の武力がほしかったので糺明は避けたらしい。同七年に時艱は六九才で病没する。これは悲運を見ずに終わったことになり、幸いだったといえる。持豊が家督、これに持熈が反抗するが大事にはいたらない。重ねがさね幸運だった。

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文化人大名山名時熈 anchor.png

時無は応永四年(一三九七)に北山殿道義(足利義満)の春日社参に供奉して奈良に至るが、このおり法隆寺近くの聖徳太子達磨大師対問伝説として知られる片岡山を訪ね(月庵和尚から垂示されていた)、達磨寺の廃墟を探ってこれの復興を志した。
大和は南都七大寺などの栄える旧仏教の王国、新仏教の進出は許さない。
鎌倉末期、禪宗達磨寺が創建されたが、興福寺六方衆徒が断罪破却してしまった。今や室町将軍家と重臣山名時熈の威光で達磨寺が復興される。
しかし、復興成就は永享元年(一四二九)のことであり、供養導師に下向した禪匠の惟肖得巌も、神国大和の禪宗排撃を慨嘆している。ちなみに、時熈は嫡子満時の夭折を悼んで南禪寺に栖眞院を興した。なお院内に書斎栖眞軒を設け、ここで惟肖和尚らと詩文の会を楽しんでいる。時無は郷国においても禪院の振興をはかった。
すでに先代の時氏も時義も、将軍家にならって禪院の創建に努めている。
但馬守護の時義は、先代の貞治六年(一三六七)に但馬黒川に大明寺(生野町)を開いた月庵宗光に深く帰依した。
時義は円通寺殿と諡せられ、竹野の円通寺に葬られたが、同寺も月庵和尚が開山である。
さて時熈は幼にして和尚に参叩した。しばらくで和尚は寂したが、大出世した時熈はなおも和尚を慕い、墓所を大明寺に定めていた。大明寺殿と諡せられる。なお、早田の大同寺(山東町)を祖父時氏の菩提所とし、これも和尚に献じている。

なお、時熈の禪院振興の一つとして特記すべきは楞嚴寺の拡充である。
同寺は権中納言平宗經家の出身で禪僧となった南溟昌運が延文五年(一三六〇)に創建住持した。
これに從三位楊梅親行が因幡服部庄領家職を寄進、但馬久斗庄とともに同寺の根本寺領となっている。同じく円通寺領因幡津井郷も知られ、西但と東因との交通を考えるうえでも興味深い。
ところで時艱は楞嚴寺の環境を愛好した。公卿出身の南溟和尚や勧請開山夢窓国師の遺風に共感したといえそうである。時熈は本寺を保護、因幡服部庄の歴代将軍の安堵などは率先これを申請、因幡山名氏に遵行を命じているし、但馬二方庄公文職を寄進している。むしろ菩提寺の感もある。なお、時熈が但馬に建立あるいは拡充した禪院は宗鏡寺など数多い。

ところで、時熈は禪院のみならず、社寺の崇信も厚く、一宮出石社や妙見山日光院などの保護に努める。
禪宗は新渡来文化だし、官仏教だったから摂取に努めたため、とくにきわ立ったといえる。当代、和漢兼帯の教養ないし文化が称揚される。和漢兼帯の文化人としては夢窓国師が先達、その記念物は西芳寺(通称苔寺、花御所や東山山荘はこれを模している)だが、時熈は楞嚴寺に苔寺の風光をも偲んだことかもしれない。

なお、将軍家や大小名らの社交に連歌会や茶会が盛んになった。ともに和漢兼帯の教養が求められるが、とくに和漢兼帯文化の茶会は連歌師が主宰した。連歌師とともに茶湯者が宗匠といわれるが、茶湯はもと連歌師のワキ芸だったのである。
遊吟の連歌師の草分けとして高山宗砌(そうぜい)が有名だが、もと時熈の家臣だといわれる。
時熈は屈指の大名歌人である。なお、時熈は茶数寄(茶器愛玩)を好んだ。自らを卑下して「茶喰(くら)い」と称したという(『正徹物語』)。
茶湯は和漢文化兼帯の東山文化の華として発祥するが、その胎動期に愛好者として時熈の名が知られるのが注目される。
時熈は文武兼帯の将といわれる。とくに文化人大名というにふさわしい。上洛の家臣らも主人の時熈の遊楽に陪する。京都往来の家臣らが中央文化を伝播する。禪院なども新文化を伝播したのである。

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山名宗全の驍勇 anchor.png

持豊(一四〇四~七三)が亡父の遺領を独占したことにたいし、備後に潜んでいた兄の持熈が反乱したが、問もなく鎭圧された。山名一族が持豊に從順している。当時、将軍義教は諸大名制圧戦を続行、これに持豊が重用された。

義教は武断政治の報いで嘉吉元年(一四四一)六月に赤松満祐の凶刃に倒れる。赤松邸御成りに供奉した侍所所司の持豊は面目を失するし、石見守護の熈貴が血祭りにあがった。播磨下国の満祐追討に持豊はいち早く進撃した。
八月末に但馬から播州に入り九月十日に満祐を討伐した。論功行賞として持豊に播磨・石見守護、教清(義理の孫)に美作守護、教之(氏清の孫)に備前守護が授与された。
反満祐の赤松満政に将軍家料所の東播磨三郡、征伐軍大将の細川持賢に摂津中島郡が与えられたに過ぎないのだから、持豊が戦功随一、赤松氏遺領は山名一族で握ったことになる。
山名持豊一族の領国は十方国に達する。この嘉吉の乱から管領家の細川・畠山両氏の指導権爭いが始まった。管領細川持之にたいし、将軍義教から処罸隠居させられた畠山持国が同様な隠居大名を糾合して細川持之の退陣を要求したことに始まる。諸国に新旧二人の守護大名が出現、被官らが対立抗爭するのである。
なお、斯波氏は守護代らの下剋上で勢力失墜、細川・畠山両氏が諸国大名両分の党爭を展開するのだから管領政治は半身付随となり、幼主義政を擁する側近勢力の貴族政治が展開する。細川畠山の抗爭はかれらには好ましい。それをむしろ煽り、漁夫の利をはかった。

山名持豊は念願の播磨に進出、山陽道も抑えることとなった。赤松氏を喪った細川氏は毒は毒を以て制するの譬えだが、持豊の女を勝元の妻に迎えた。なお、持豊が畠山氏に味方するのを防いだのである。ちなみに、四職家では赤松氏が亡び、一色・京極両氏も衰退している。

細川氏は将軍家権威の高揚のため、諸大名の制圧、おりから吉野奥地で旗あげした後南朝の討伐を期した。創業の名臣細川頼之の政策をしのんだものである。しかも、細川氏の独走をはかった。このため将軍家側近政治は是認している。

持豊は勝元を女婿としたためこれに協力したが、細川氏の政治謀略や不信行爲にはしばしば泣かされた。享徳三年(一四五四)、畠山義就派と政長派との家督相続争いの洛中騒擾が始まったが、政長派の敗残兵が逃げこんだのが不運、将軍義政の怒りをかって処罸されることとなった。
相続爭いに細川氏が介入していたのは明かだが管領の勝元は処分されない。勝元は義父のため職を賭して義政を諌め、
但馬に隠居の処分でおさめた。勝元には美談だが宗全は不満である。
なお、細川氏には赤松氏残党の主家復興の嘆願に同情を寄せた者があり、後南朝が奪取している神璽(三種神器の一)の奪還を浪人らに課した。これも宗全にたいする不信行爲の一つである。このおり、勝元は宗全の息を養子に迎えている(後年の鄲林和尚)。

細川氏の介入する畠山両家の抗爭は、河内・大和では合戦、帝都では政爭となった。細川勝元の管領政治は無力化、将軍家側近勢力の窓口となった政所執事伊勢貞親の擅権(せんけん)や寵嬖(ちょうへい)政治がふるった。
宗全は赦免を待たず上洛したが、やがて将軍家に出仕している。神璽奪還祝賀として恩赦されたらしい。しかし、神璽奪還によって赤松氏の播磨回復運動に燈火が点ぜられたため、宗全はいらだった。
嫡子の教豊を本国に追い下している。さきの宗全の処罸以来、一族に不協和音が発している。

宗全には赤入道のニックネームが呈された。一休和尚もこれを詩句(『狂雲集』)でうたっている。さきに赤松満祐は三尺入道といわれた。宗全は青年時代から蠻勇を評され、侍所所司としてはむしろ暴政を称されている。宗全といい満祐といい、優雅を旨とする帝都生活にはなじめなかったらしい。
父の時熈とはちがい、直情徑行の性といえよう。宝徳二年(一四五〇)に南禪寺に眞乘院を開基、そして入道したのが特筆される。

宗全は管領家と所司家(四職家)の格差にもようやく気づいたらしい。
大相撲の横綱と大関とは同格だが、栄誉に差があり、なお降格がない。それと同じい。
さきに細川勝元を婿にしたが、なお管領家を扼するため、斯波家の義廉・義敏の相続爭いに介入し義廉を援けた。義敏を推す伊勢貞親と衝突した。
貞親の執拗な謀略に耐えかねた宗全は、文正元年(一四六六)九月、ついに君側の奸を討つとして蹶起、貞親や藤原軒眞蘂西堂(いんりょうけんしんずいせいどう)らの武力追放を決行するにいたった。ちなみに、眞蘂西堂は赤松氏の一族であり、次郎法師丸(赤松政則)を喝食(かっしき)として養育していた。将軍家に政則の元服や一字拝領をも周旋している。

貞親は宗全を振り切るため、将軍家家督を待ちわびる足利義視を斯波家騒動に結びつけ、宗全らを与党として家督を迫ると将軍義政に讒言した。
義視を細川勝元が後見しているが、すでに義政には実子の義尚(よしひさ)が生まれた。義政夫人日野富子には義尚を僧侶にするという義政・義視兄弟の協定は呑めないものだった。

宗全の蹶起にたいし、貞親らが逃亡したため武力行使にはいたらなかった。このおり義視は出奔して勝元邸に入った。政局は大混乱した。宗全は将軍義政の処罸追討を覚悟した。しかし追討もない。勝元は義政と義視の和解を調略、義視を帰還させるのが精一杯だった。
勝元のロボット的管領の畠山政長など周章狼狽(ろうばい)するに過ぎない。
このおり、宗全は兵力増強のため、河内で善戦している畠山義就に着目、これの赦免上洛をはかるため、姉の安清尼を日野富子のもとに日参懇請させたが、富子からは義尚擁立を依頼されたといわれる(この所説はやや疑わしい)。
宗全は側近勢力の僧俗が大名の更迭などをさかんにするのを憤慨した。これの権限を持つ管領家の細川勝元は貴公子ぶり、側近勢力にむしろ迎合黙認、それも自家の独走に役立てている。
将軍家家督の義視の後見人でありながら、側近勢力を慮ってこれの実現に努力しない。宗全は義憤を発し、勝元に挑戦を決意したらしい。
しかし、勝元は義父の宗全に刃向うことはしない。そこで、宗全は勝元を登場させる謀略として、朝敵畠山義就を上洛させ、管領の政長と畠山氏惣領職を爭わせたといえる。
勝元が非力の政長を支援、戦場に出るのは必定と考えたのである。なお、義就を配下にすれば、三管領家制圧の念願も達せられる。畠山義就の上洛で政長が狼狽する。あるいは義就側からも日野富子あたりに赦免懇請がつづいたのかもしれない。不思議なことだが、政長らがこれを察知したようすはない。

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応仁の乱 anchor.png

文正二年(一四六七)正月、元旦の儀式に管領政長は参仕したが、翌二日の管領邸御成りは中止された。同日、畠山義就が参仕した。やがて、管領に斯波義廉が補任せられ政長は罷免された。宗全は盟主に推されたが、管領に起用はなく、なお、義就の任用もない。むしろ三管領家輪番制の旧態依然たるものだった。革新にはほど遠い。将軍家御所は山名宗全らが扼し、なお義視も迎え入れたので、勝元は将軍家と遮断されてしまった。将軍義政は勝元の政長支援を問責、これと絶縁を命じた。やがて、義就と政長との決戦が許されるが、勝元は宗全が義就を援助しないことを条件にこの命令も呑んだ。

正月十八日拂曉、上御靈の森に陣取った政長軍を義就軍が攻撃した。終日勝敗は決しない。しびれをきらして山名政豊(宗全の孫)や斯波義廉の部将朝倉孝景が義就軍に加わったため、政長軍は敗北潰走する。政長は勝元の支援をもとめて彼の邸宅近くに陣取ったし、再三援兵を請うたが勝元は動かない。
将軍家とつねに共にあることで細川氏は利を得た。将軍家と遮断された勝元は爲すすべもなかった。宗全らは快勝に酔った。宗全には往昔、細川頼之の謀略に敗れた明徳の
乱の仕返しができた喜びもある。急を聞いて上洛した諸国兵も国もとに帰らせている。

これにたいし、細川一族は雪辱の期を狙った。赤松政則はふるさと播磨に下向、山名軍と戦っている。宗全を惱ます軍略ででもあろう。なお、与党の大名らには秘かに各邸宅の要塞化を命じた。立地条件が幸わいし、蹶起すれば将軍家包囲網となり、宗全党を将軍家から遮断できる見とおしである。宗全も風雲の急を感じて与党大名と軍議したが、兵力不足がつまづきの基だった。将軍義政や富子は宗全や斯波義廉に自重を命じたという。五月二十六日、細川党が宗全与党の攻撃を始めた。宗全配下の垣屋軍などが敗退している。合戦は焼掠戦である。緒戦一両日で上京諸所が焼かれた。利運の勝元は義政に宗全追討を要請するし、義視を将軍家に迎え入れた。すでに宗全の次男の是豊が勝元党に投ずるし、管領斯波義廉が降服を申入れたといわれる。宗全党は機先を制され、戦意もあがらない。六月、義視が将軍旗を授けられ、宗全追討の大将に任ぜられた。日野富子らが将軍旗親授を阻止するに努めたという。富子が宗全や義就に好意を寄せていたのがわかる。ここで宗全らは賊軍となるわけだが、不思議ながら官軍・賊軍といわれない。いつしか、東軍・西軍の称が生ずるのである。やがて西陣の地名が生じ、そこに陣取った宗全の名ものこる。

月末に宗全軍八万が到来した。四万は丹波に残したともいわれるので、数万の兵数だったのはたしかだろう。西軍大将の面目が立ったといえる。これまで西軍は但馬を故郷とする越前の朝倉孝景の奮戦で支えられていた。斯波義廉が降参を申入れたとき、朝倉の首を持参せよといわれたという。勇者だったのがわかる。なお、八月に大内政弘の大軍が上洛する。これで西軍も退勢を挽回した。このおり、東軍が主上や上皇を室町第(将軍家御所)に奉迎している。すると義視が将軍家から出奔した。西軍の勝利を恐れたのである。両軍ともに動員の諸国大名軍が到来したことになり、そして街地戦が決行される。問もなく帝都は廃墟と化するのである。

翌二年、出奔の義視が帰京するが、義尚擁立の伊勢貞親が参仕しているのに絶望、同年末に西軍に投じた。西軍は将軍家を東軍に擁せられている不利を脱し、天下分け目の合戦が挑めるわけだし、軍兵の動員には役立つのだが、西軍諸将間に賛否両論がきかれる。一方、義尚の家督が確定、日野富子が気負って義政としばしば衝突する。富子に親しんだ宗全や畠山義就などは降参も考えたらしい。

両軍の合戦は一進一退、いわゆる泥沼合戦となった。補給などの問題もあるし、国もとにも東西両党合戦が波及した。とくに恩賞は望めず、消耗戦にすぎない現実を知ると、厭戦気分もつのってくる。大名軍の帰国もはじまる。しかし、新規に上洛軍があり、それでしばらく戦火もあがるというものだった。

将軍義政が酒色に明け暮れ、禁裏は念仏生活だという識者の慨嘆も聞かれる。文明四年(一四七二)、老体で弱気となったか宗全は勝元に講和を申し入れた。勝元も気を動かしたが、赤松政則が播磨・美作・備前の領有を主張して譲らないのでご破算となった。宗全も勝元も面目を失なった。宗全は自刃をはかり、勝元は髻(もとどり)を切ったと伝えられる。そして宗全は家督を教豊の順養子としていた政豊に譲った。政豊は一時、東軍に降ったという噂もあった人物である。なお、教之が伯耆に下国、間もなく病死している。

翌五年三月、前年の自刃の後遺症も作用してか宗全は病死した。西軍大将の名をあげた勇者としては淋しい死去といえるだろう。ところで、月余にして勝元が流行病で急死する。これまた不思議といえる。

大将の共倒れで、両軍は解体すべきものだが、東軍の細川一族の団結は固く、諸将の動搖もない。西軍は大内政弘邸に諸将が会したという。政弘を大将として結束したものだろう。義視を将軍として戴いているのも幸いだった。東西両軍の対峙はつづく。実は、大内政弘は宗全にまさる活動を示していた。郷国からの海路補給路のほか、山名是豊を追却して山城を握り、兵站(へいたん)基地としたことも役立った。大和をはじめ近国からの補給路を握っている。
ちなみに、義視が将軍に奉戴されて以来、大将宗全の権威が動揺していたことは否めない。しかし、侍所所司の最長老であり、東軍ながら大将細川勝元の義父だというのが大将の座を確保せしめていたといえるだろう。

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山名氏の余光 anchor.png

宗全の名跡を継いだ政豊は、山陽道における宿敵赤松氏の脅威に焦心した。同年、義尚(よしひさ)が成人して将軍に補せられた。後見の日野富子が女将軍と称せられるが、これが将軍家の存在をはっきりさせた。なお、将軍家の花御所が安泰、花御所は禁裏もかねた。このため、東軍に官軍色が輝いた。おりから、両軍対峙のさなかだが、難民の小屋がけに始まって町民の町づくりが進んできた。戦後復興景気も起こる。そこで戦爭怨嗟(えんさ)と平和願望が高まる。怨嗟は戦火メーカーたる大小名軍に集中する。花の帝都を田舎人に蹂躙されたという住民感情もこれに作用する。大小名らが下国を早める一因となったらしい。このおり両軍から棚上げされて武力放棄にも似た将軍家や公家の伝統的権威が仰がれる。西軍はいよいよ不利となる。
翌六年、講和機運が高まり、山名政豊がまず細川改元と講和した。但馬・備後を確保できた。なお、四職家が就任する例で山城守護にも任じられた。太田垣・垣屋らの老臣は同意したが、不満とする者もあったらしい。播磨などは旧主の赤松氏が狙っており、保持はむずかしい。ぜんじ、家臣らも講和を了承するが、家臣らの下剋上もつのってきたのがわかる。ともかく、この講和は但馬確保という点では賢明だったといえる。同九年に終戦となった。西軍大名の多くは帰国したが、政豊は在京した。結局、山名本家には但馬と備後が残り、他は喪失する。なお、因幡・伯耆が一族に残った。しかし、六分一大名・十か国大名の称は全く消えた。

なお、山名氏としては播磨を領有したい。ところが、赤松政則が播磨・美作・備前を獲得、山名勢力の一掃をはかった。なお、政則は在京は避け、侍所には家臣の浦上則宗を所司代として在京せしめる。対抗上、政豊も下国を余儀なくされる。同十年九月に下国、以後はほぼ在国した。ちなみに、備後には次子俊豊を送りこんでいる。なお、翌十一年には因幡に出兵、山名豊氏・豊時を援けて国人森二郎の反乱を鎭定する。森二郎を政則が支援したといわれる。

山名政豊はしばしば播磨に進撃した。敗北に終わるので、家臣らに異論も生じたが、文明十六年(一四八三)、赤松政則が浦上則宗に追放されたのに乘じて進撃、則宗を敗走させて赤松領国を收める戦果をあげた。間もなく、政則の反撃をこうむるが、長享二年(一四八八)に大敗、完全撤退にいたるまで坂本城などを維持していたのが注目される。しかし、この大敗の波紋は大きい。家臣らが政豊を廃して俊豊(長男)に代らせる謀略に遭い、一時は逃避する破目となった。俊豊らと反目することになるし、家臣らの下剋上や対立を制止する権威も失せる。このおり、但馬は戦国乱世に突入した感がある。

政豊は晩年、俊豊と戦ってこれを敗死せしめた。三男の致豊が家督して但因両国守護となるが、内憂外患に遭遇した。以下は他稿にゆずる。

山名氏は時氏・氏清・時熈および宗全の四代が相次いで名声をあげた。時氏は辺隅の百姓同然の出自だったが大出世したと述懐している。四代各人それぞれ出世街道を異にしたし、波瀾万丈の人生だったかもしれないが、福徳満足と評さるべきものであろう。三代目の時熈で名族山名氏の盛代がうたわれるが、西軍大将の栄名をあげた宗全の存在もこれを補強した。それぞれ持ち味に掬すべきものがある。この四代累積の栄光を負って山名氏は連綿したといえる。

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筆者は昭和43年に『応仁の乱』(日本歴史新書、至文堂発行)を著作、同50・53年に『兵庫県史第二・第三巻』の「南北朝~応仁の乱」を分担執筆した。なお、昭和34年に論文「織田信長の但馬経略と今井宗久-付、生野銀山の経営-」(関西学院史学第五号)を発表している。ちなみに、昭和29年から山本茂信氏とともに「但馬楞嚴寺・妙見山日光院文書」の校刊に当たった。その交誼から本稿を執筆呈上する。
栃木県佐野市生まれ、奈良市在住。
※参考書『兵庫県史』・『同中世史料編』石田松蔵『但馬史』小坂博之『山名常熈と禅刹』・『山名豊国』

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西陣碑京都市上京区堀川通上立売下ル山名町


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