山名氏、赤松氏両軍陣没諸霊供養塔、建立の記 anchor.png

山名赤松両氏顕彰会 事務局 吉川広昭

平成二年五月二十六日、但馬竹田虎臥山城頭に、山名赤松両氏顕彰会は一級の宝塔を蹇立しました.
塔の型式は、中世の武将に相応すべく、宝篋印塔とし、範を城崎町の温泉寺塔(国重文指定)に求め、施工を日高町の 神鍋石材さんに托しました。
塔内には、往昔山名・赤松両軍の流血の跡である但馬真弓峠・凾播磨坂本城・室山城・城山城等の土砂一瓶と、山名・赤松両氏の末裔が今日を記念して至心に浄写した「宝篋印陀羅尼経」を納めております。
顧みれば、嘉吉の変を頂点とした永年の間、播但の南北に対峙した竜虎の両雄は京都兵庫岡山等の各地で壮烈な攻防戦を展開してきました。戦国の習いとは言え痛恨の極みであります。これら幾百千の陣歿諸霊の鎮魂供養と、史上に雄名を止めた両氏の遺徳顕彰は、今日に生きる末裔等しく為さねばならない責務でもあります。

以下、供養塔建立の経緯を要約して事業報告といたします。

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(一)発願者太田垣泰明氏と発起人会発足 anchor.png

平成二年正月、和歌山市在住の太田垣泰明氏から、宿願の両軍諸霊供養塔建立を進めるために多額の運動費が寄托されました。
氏は村岡山名氏第七代義徳公を祖として、中世の名門太田垣氏を復興襲名された家系の方ですから、竹田城将として五代に亘って南但馬を支配した「太田垣氏」とは血縁的には無関係ですが、名跡を嗣いだからには、これ(供養塔建立)をやらなければご先祖に対して申訳がないという使命観を持っておられました。氏はまた、全国山名氏一族会の理事長でもありました。
そのご熱意に触発されて、事務局側も実動にふみきりました。同年四月の第四回全国山名氏一族会総会に提案議決したのは当然ですが、赤松氏側の各位への呼びかけといいますかご相談といいますか、ご同調ねがえるお方を摸索する毎日が続きました。この間に赤松氏菩提寺の播州赤松法雲寺様・赤松史研究の第一人者であられる竜野市八瀬孝先生の親身なお世話をいただいたことが何よりの励みとなりました。
かくして、十一月の末には赤松氏側二十氏山名氏側二十名で「供養塔建立発起人会」を発足させる運びとなりました。
そうした十月十一日、突如として発願者太田垣泰明氏急逝という悲報が届きました。続いてご遺族から、故人の遺志として、供養塔建立資金にと多額のご寄進がございました。悲喜交々の感懐を胸に、私どもは初志貫徹こそ唯一の報恩供養であることを誓い合ったものです。
十一月二十六日、大阪の新阪急ホテルで、所期の通り発起人会を開催し、全会一致で建立に向かうことが約され、またそれぞれの同族や知己をご紹介くださるという心強いご支援をいただくことができました。

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(二)和田山町有志のご協力 anchor.png

一方、供養塔建立に当っての用地確保ですが、これは地元のご協力なしで出来ることではございません。
現在、竹田城のある虎臥山の土地は、・石垣に囲まれた城跡部分が和田山町の所有、山腹の雑木林や植林地が地元数氏の私有林となっております。
言うまでもなく「竹田城址」は国指定の史蹟として天下に知られておりますところから、文化庁の指導監督も強力で、地形の変更や工作物の設置などは許されることではありません。また、城壁に続いた私有林の部分についても、城の外構えとしての貴重な遺構が各所にみられるなどで、文化財保護の立場から妄りにこれを侵すこどは慎しまねばなりません。
しかし、山名氏・太田垣氏・赤松氏の三者にとっては、この虎臥山こそが聖地であり、他の場所では意義を失うわけですから、用地入手は暗礁に乗りあげたような状態になりました。この苦衷を救ってくださったのが、和田山町当局の首脳各位であり、地元竹田地区の有氏であります。つまり、山上駐車場に隣接する桧林の一部を用地にしてはどうか。そこなら南千畳の壮大な城壁を仰ぎ見ることがでぎるし、眼を転ずれば、播但国境の山なみが見渡せるしという話です。そこで、早速に実行委員会(発起人中より委嘱された四名で構成)で現地検分の結果、そのおすすめに従うこととし、土地買収の斡旋を願い出ました。

農山村の人にとって、先祖伝来の土地を手放すということは大変なことなのです。事の是非とか金銭の問題とは別の次元で愛着限りないものがあるのですが、それを抑えて六十平方メートルの用地を割譲くださった土地所有者の西垣信男氏、同じく成長途次の立木多数を伐倒して展望空聞を用意くださった吉田正喜氏と、その間の周旋にご奔走たまわった田中一郎氏・藤本重之氏・岡村精一郎氏のご高恩は筆舌に尽せません。ただただ感謝あるのみです。

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(三)神鍋石材さんのご配慮 anchor.png

さて、残るところは施工業者の選定と発注です。ところが、このたびの供養塔が、手の込んだ宝篋印塔であり、しかも、中世の名作にならうよう注文がついておりますので、石屋さんとしては敬遠したくなる類の仕事らしいのです。数軒の石屋さんに交渉したりしましたが、結極は但馬屈指の老舗である 神鋼石材さんに落ちつきました。これも不思議なご縁というのでしょうか。全国山名
氏一族会の相談役に専修大学教授の太田順三先牛(中世史)がいらっしゃいますが、先生のご実兄がこの神鋼石材社長太田晃太郎氏なんです。そんなわけで神鍋石材さんも商売気を離れて良心的な仕事をしてくださいました。ことに用地が急傾斜地となりましたので、三メートルもの高い石垣を積まねばなりません。当然ずいぶんな工事費がかかるわけですが、当方のふところ具合をお察しくださって、うんと格安にしていただくなどのご配慮をたまわりました。
ついでに付記しますが、この石垣の用材は神鍋火山の熔岩でして、色といい肌といい、他に例のない風格をただよわせております。

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(四)両氏ご一族のご協賛 anchor.png

さきの発起人会決定に基き、事業趣意書と募金ご依頼の書状を、両氏のご末裔宛に約一千通発送したのですが、果してどのような反響があるだろうか。正直なところ目標額が達成できるかどうか、全く五里霧中の有様でした。近年はダイレクト・メールの花盛りです。
いろんな郵便物でどこのお宅も始末に困っておられるのではないかと思いますが、そうした中に私どもの手紙も交るわけですから、まず読んでいただけるかどうかが案じられます。見ず知らずの者からの手紙など、ごみ篭に直行するのがおちではなかろうか。さいわいにもご一読くださったとして、どう受けとられるだろうか。山名氏とか赤松氏とか尤もらしい名まえを悪用したインチキ商売だろうと疑われたって仕方がない話です。

ところがです。郵送してから一週間すぎた日に、神戸貯金事務センターから一通の振替便がきました。ご応募第一号ですから、大変な感動を覚えて封を切りました。それから連日のように続々と振替郵便がまいります。中には○が六つも並んでいて、何度も位どりを数えなおしたような、スゴイご芳志もありました。また親戚一統に呼びかけたのでと、二十名連記のもございました。それらを整理しながら、つくづく思ったのです。
赤松氏といい山名氏といい、発祥以来数百年の生命は現に今、脈々として息づいているんだなあ。“歴史の波に没し去った過去の名族”と受けとっていた私の考えのまあ、何とあさはかなことよ」
そうした尊いお心を戴して、今回の仕事もそれ以後に続く鎮魂供養のお勤めも、私心を離れて奉仕しなければ申訳ないと、思いを新たにしたものであります。

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(五)供養塔落成開眼式典 anchor.png

  • 期日:平成二年五月二十六日午後一時~三時
  • 式場:兵庫県朝来郡和田山町竹田竹田城山上駐車場奥
  • 参会者:赤松氏関係三〇名、山名氏関係五〇名、来賓二〇名、計百名
  • 次第
    • テープカット:〈代表五氏〉赤松衛氏(竹田城最後の城主赤松広秀公末裔)、太田垣貴美氏(竹田城五代の城将太田垣氏末裔)、太田垣佐登氏(発願者故太田垣泰明氏会孫)、山名晴彦氏(全国山名氏一族会総裁)、山本幸男氏(阿波赤松氏末裔)
    • 開眼作法
    • 参列者焼香
    • 奏楽(都山流尺八・中島夏以山先生と一門)
    • 事業報告
    • 感謝状贈呈:神鋼石材殿、谷本紙業殿、岡村精一郎殿、田中一郎殿、木村澄夫殿、西垣信男殿、吉田正喜殿、山本幸男殿、八瀬孝殿
    • 来賓祝辞
    • 主催者挨拶
  • 記念撮影
  • 斉食(昼食)
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第一次解散 anchor.png

  • 第二部懇親会(グリーンピア三木)
  • 第三部史跡巡拝
    • 赤松氏側:三木城=竜野宝林寺=恩徳寺=赤松宝林寺=赤松法雲寺
    • 山名氏側:第五回一族会総会=多田神社

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