寺号の由来
東林山 養安院 法雲寺(とうりんざん ようあんいん ほううんじ)の名称の由来は記録によると「法雲寺」という名前は村岡山名代三代・山名伊豆守矩豊公が寛永 19年(1642)に村岡に入部された折に、在郷の禅院を山名家の菩提寺 と定め、命名したものです。
東林山 | 東林院殿徹庵禅高大居士 | 初代山名豊国(禅高)公法名(矩豊の祖父) |
養安院 | 養安院殿妙証日円大禅定尼 | 二代公室(夫人)法名(矩豊の母) |
法雲寺 | 法雲院殿桂岳道栄日潤大居士 | 二代山名豊政公法名(矩豊の父) |
村岡山名歴代藩主一覧
「報恩寺(ほうおんじ)建立」
法雲寺のある現在の村岡周辺は南北朝の昔より七美(ひつみ)の庄と呼ばれており、庄内のほとんどは花園・妙心寺(臨済宗)第二世授翁宗弼(じゅおうそうひつ)の荘園でありました。宗弼は俗名を藤原藤房と言い、後醍醐天皇の側近で建武の中興の一番の功労者でありました。その宗弼が永和元年(1375)、齢・八十歳の時に当地・七美庄に自ら発願され「報恩寺」(ほうおんじ)を建立し、父母や先祖の菩提を供養すると共に、荘園の管理に当らせておりました。その後、宗弼は諸国行脚の旅に出掛け三河の国で八十五歳で亡くなりました。南北朝から室町へと時代が進むにつれ、荘園の形態も弱体化し、報恩寺の荘園を管理する役目は終わり、土地の為政者の祖先供養が重要な役割となり ました。
江戸時代初期
時代はさらに進み、江戸時代、因幡山名の嫡流・山名豊国(禅高)公は徳川幕府より七美庄一帯六千七百石を与えられ、村岡山名の初代となられました。初代豊国(とよくに・法名「禅高」)公・二代矩政(のりまさ)公は共に京や江戸で暮らされ七美庄には足を向けられた形跡はなく、藩の行政は国家老が行っておりました。
矩豊公の入部
しかし、寛永年間(19年・1642年)になり、村岡山名代三代矩豊公が藩地に入部され、初めて大名としての行政を行われました。(寛永19年「参勤交代」の制度化とも関連ありか?)
その第一が藩都を現在の村岡の地に移され、村の名前も「黒野村」から「村岡村」へと改められ、新たな城下町造りに励まれました。その時、黒野村にあった寺院が「報恩寺」で、矩豊公は報恩寺を山名氏歴代の菩提寺と定め、鎌倉時代以来の宝牌を納めて名門山名宗家としての祭祀を尽くされました。
「ほうおんじ」(報恩寺)から「ほううんじ」(法雲寺)へ
また、矩豊公は「報恩寺」(ほうおんじ)と言う寺の名に、公の父二代・豊政公の法名「法雲」(ほううん)をあてはめ、寺名を「法雲寺」の文字にに変え、併せて公自身が熱心な法華経信仰者で有ったため宗派を臨済宗から日蓮宗に変更しました。
「日蓮宗」から「天台宗」に改宗
その当時徳川将軍家は「天台宗」(寛永寺)と「浄土宗」(増上寺)を信仰されており、矩豊公は御伽衆と言う将軍に近しい役職上からの判断も有ってか、元禄4年(1691)に「日蓮宗」から「天台宗」へと宗派を再び変更され、以来二十代の住職によって現在まで引き継 がれております。
( 「不受不施派寺請禁止令」と関連があるかも知れない)
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