『山名家譜略纂補』雑感 anchor.png

宮田靖國

京都大学文学部史学科古文書室蔵の『山名家譜略纂補』に、「山名家庶流系譜略」という項目があり、

  • 筑紫山名  山名小太郎重村之二男、弥三郎義政の子孫。仕于征西将軍宮。在于肥後国。
  • 上野山名  重村之三男、新三郎國長の子孫。仕于足利左馬頭基氏。住于上野。
  • 備後山名  時義の三男、氏之の二男の宮内少輔豊氏の子孫。住于備後。
  • 遠江山名  遠江国山名郡。藤原姓。
  • 下野山名  是、児玉党之分流而藤原姓也。

と、ある。藤原姓が出てくるので角川書店刊の太田亮著『姓氏家系大辞典』を引くと、「山名」の項に、藤原北家、尊卑分脉に

「高藤の裔孫、頼明-泰明-泰藤-泰房-範房-範定-範俊-女(山名忠俊の室也。忠俊は『山名義範-義行-忠俊』也)-顕圓-顕従-(山名)貞氏-従圓-康政-従恵-実恵-顕政」と見ゆ。

と、ある。これが事実ならば、(太田亮ほどの泰斗が『尊卑分脉』に見ゆ、と言っているのだから事実に決っているが)藤原姓山名氏とはやはり山名氏そのものであろう。なぜなら範俊の女が山名忠俊に嫁し、何か故あって実家に帰ったが、曽孫に山名氏を名乗らせた、と考えられるからである。というのは『尊卑分脉』に山名義範六代の後裔が俊行とあり、後付けして

正安三八廿五依有謀反風聞被召捕被誅了

とある。
『山名家譜』にはもっと詳しく書いてあって、

正安三年辛丑八月廿五日に一族山名新次郎行直同中務丞俊行同三郎五郎為俊等将軍家の仰を背き叛逆を起すによりて誅戮せらる。是によりて其一跡を以て義俊に宛行わる

と、ある。行直(ただ)、俊行、為俊等とあるから、山名忠俊もその係累なのであろう。参考までに『尊卑分脉』山名系図を後載する。

ところで『山名家譜略纂補』の『当家末流之称号畧』の項に、『宮田、田中、三上、大坂、八橋、海老名、清水、有路』と、ある。しかるに山名藩家老池田家御所蔵の「山名系図」には、氏清の次男満氏に河口参河守と後付けしている。これが事実ならば河口家は「当家末流之称号」の中になぜ入っていないのか。それは、満氏の子清家が江津和泉守となって、又名字を変えたからだ、と言う人があるかもしれない。
しかし、『山名家譜略纂補』の系図は、満氏の所を、
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と、書き足しているのである。

満氏の河口参河守は晩年の官途だったのであろうか。又、民部少輔教泰や村氏は河口氏を名乗ったのであろうか。そ
れとも山名氏を名乗ったのであろうか。満氏が民部少輔であったことは確実だから、民部少輔氏清の嫡流を継いだと考えれば、その子孫は山名氏を名乗っていて然るべきである。



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