(はじめに)
この研究ノートに、どなたかが山名赤松両氏の衰運のことを書いてくださるだろうと気楽に構えていたが、面白くないことは書きにくいのだろう。結極誰にもそこまでは触れていただけなかった。編集子の手落ちである。といって今(五月十日)から誰かにお願いすることもご迷惑な話である。やむを得ず。歴史には縁遠い私が受けもって一応の義理を果たすこととした。
なお、私ごとながら、わが家系をたどれば、赤松氏八十八家の中に、先祖円山兵庫頭を見出すことができ、いわば赤松氏末孫のひとりである。それが、山名寺を預かり、朝夕山名氏歴代の菩提を祈るのである。正に宿縁と言うべきだろう。
そんなわけで、盛者必衰を図に描いたような”山名赤松両氏の黄昏”を眺めてみた。不備の点はどうかご宥恕いただきたい。
この稿をまとめるために山名赤松両氏の交渉の概略を知ろうと年表(兵庫県史別冊)を繰ってみて、今さらのように無量の感懐を覚えた。
○正平九年 (一五四) | 12南党山名時氏、直冬を擁して、伯耆より但馬を経て播磨に入り、義詮・則祐軍と斑鳩寺付近で戦う。 |
とあるのが山名赤松両氏接触の初見であり、
○大永二年 (一五二二) | 11但馬守護山名誠豊、赤松家臣の内紛に乗じ播磨に侵入し広峰山に陣をとる。 |
○大永三年 (一五二三) | 11山名誠豊、書写山の戦に破れ但馬に退く。 |
の記述が最後であった。その間実に百七十年、兵庫の南北に対峙した竜虎の両雄は攻防に明け暮れるのである。
中でも抗争が最高潮に達したのは、所謂「嘉吉の変」による両軍の決戦であろうが、それに続く五十年間もまた、両雄の拮抗と、時代の推移による両軍の内部変化 - 衰運をもたらせたことで重要である。
○文明一年 (一四六九) | 10東軍の山名是豊、赤松政秀ら、大内政広の軍を兵庫に破り、兵庫を奪還する、 その戦功により……赤松政則は播磨・備前・美作の三力国を拝領、兵部少輔に任ぜられる。 |
○文明九年 (一四七七) | この年赤松政則侍所所司に任ぜられ…… |
○文明一五年 (一四八三) | ▽山名政豊、播磨攻略に進発する 9備前の松田元成、浦上則国・櫛橋則伊らの拠る備前福岡城を攻囲する。 12赤松政則、但馬・播磨の国界真弓峠に山名政豊を迎え撃って大敗し、出奔する。 |
○文明一七年 (一四八五) | 3赤松政則、播磨光明寺に着陣する、ついで山名政豊の武将垣屋孝知らを播磨蔭木城に攻めて陥れる。 |
○文明一八年 (一四八六) | 1赤松政則、山名政豊の兵を播磨英賀に破る。 4赤松政則、山名政豊の兵を播磨坂本に破る。 |
○長享一年 (一四八七) | 3赤松政則、山名政豊の播磨坂本城を陥れる、ついで英賀西・答見山両城を攻略する。 |
○長享二年 (一四八八) | 4赤松政則ふたたび山名政豊を坂本城に攻めて破る。 7山名政豊、播磨坂本の陣を撤して但馬に引揚げる。赤松政則、追撃してこれを破り、播磨・備前・美作三力国を回復する。 9但馬守護山名敢豊の部将ら政豊を廃し、その子俊豊の擁立をはかる田公某ら政豊を奉じて木崎に拠る。 |
真弓峠の戦い
嘉吉の変で没落した赤松氏は雌伏三十年の後、政則の代に至って播磨・備前・美作の三国を回復した。対する山名氏は、備後の山名俊豊が備前の名門松田氏を語らって、赤松氏の宿老浦上氏が守る備前福岡城を囲み、但馬の父政豊も連繋して播州進攻を図った。赤松政則は、浦上氏からの救援要請を一先ず措いて但馬勢の機先を制するために北進した。
十二月二十五日未明、雪の真弓峠(朝来郡生野町)に野営していた赤松勢の先陣千五百騎は、山名方の垣屋勢二千余騎の急襲にあって、「宗徒の武将三十四名、総じて三百余人」を失った。政則は姫路に退却するが勢いに押されて国外に逃亡してしまう。浦上氏としては頼み甲斐のない主君政則の振舞に激怒し、政則の廃嫡と慶寿丸の家督相続を将軍家に願い出るという内部
分裂をひきおこした。
この段階では山名政豊が優位に立ち、播磨・備前・美作半国を再び支配下に収めている。
蔭木城の戦い
それから二年後の文明十七年、細川氏の援助を得た赤松政則は、将軍義尚に家督安堵を認めてもらい、体勢を整えて東から播磨に入った。直ちに山名方の守将垣屋一族を蔭木城(東播磨滝野町のちかく?)に囲み、垣屋父子はじめ三百五十余の首をあげるなどの勝利を収めた。かっての真弓峠敗軍の雪辱を果たしたわけである。
この段階を境に、山名氏の勢力は次第におとろえてくる。
英賀・坂本の戦い
翌文明十八年には、
送るなどで、山名方の結束が破れ、山名政豊の本拠とする坂本城は取ったり取られたりの膠着状態をくりかえしていたが、長享二年ついに政豊は坂本城を捨てて本国但馬に引揚げざるを得なくなった。ために備前福岡城に拠っていた備後の山名勢も撤退を余儀なくされ、美作の山名勢も退去するなどで、赤松氏・浦上氏の勝利が確定した。
両氏の黄昏
文明十五年から長享二年に至る六年間の攻防は、山名・赤松の双方に大きな後遺症を残した。山名政豊は敗戦帰国の後、国人たちから責任を問われて、山名氏の権威を失墜し、但馬山名氏(惣領家)は衰運にむかって走り出した。また、赤松氏も同様で、勝利は得たものの宿老浦上氏との軋轢を解消することができず、政則の死後には浦上氏の下剋上化が顕著となって衰退して行く。こう見てくると、山名・赤松両氏の対立百七十年の
なかで最も深刻な時期がこの六カ年であると言うことができよう。
(本稿を草するに当っては、岡山大学教授石田善人先生の「真弓峠の合戦蔭木城の戦い」-歴史と人物57年4月号-を参・考にさせていただいた。明記して御礼申しあげる)
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