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相次いだ中高生の自殺騒動 anchor.png

少し前まで「いじめ」を苦にした中高生の自殺騒ぎが相次ぎ、テレビ報道も連日その関連ばかり、最後には文科大臣が画面で自殺を思い止まるように呼びかけるなんて、奇妙な事まで起こりました。しかし、その過熱報道もここの所、落ち着いていますが、本当にこの騒ぎが終息したならば良いのですが・・・過ぎた一年を振り返って見ても秋田の事件のような親が子を・・・また、子が親を・・・何のためらいも無く手に掛けてしまう事件が数多く思い起こされます。

悲母観音絵馬, hibo_kannon.jpg

中高生の自殺騒ぎも自殺を「自分に対する殺人」と考えれば、些細な理由で人の命を、自分の命を絶ってしまう感覚、現実感の無さに驚かされてしまいます。本当に命の重みというものが軽々しいものとなってしまいました。時代の流れと仕方なく思うべきことなのでしょうか?
ある調査によれば中学生の2割近くが「死んでも、(暫くすると)生き返る」と答えたらしいです。そういえば数年前、佐世保で起きた小6女児による同級生殺害の事件でも、事件後、殺してしまった女の子に対して「会って謝りたい」と言ったとか。この調査結果も意外とあなどれないような気がします。「死んでも生き返る」なんて正に怪奇映画の世界そのものです。この2割の中学生の生死に関する心の中は、迷信を通り越して、「妄信」の域に達しています。(願わくは面白半分で「ふざけて、“死んでも生き返る”の所に○をつけた!」と願うばかりです。)
相次いだ中高生の自殺(自分への殺人)にしても、些細な理由で引き起こされる殺人にしても、若い年代の人たちは死に対する恐れを余り感じていないように思えますが、その心理の裏側には「死んでも生き返る」という考えが根付いているからでしょうか?だとしたら何とかしなければなりません。

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生死観・他界観が空白なのでは? anchor.png

多分、今の若い世代の心の中は、本来、信仰や信仰に基づく生死観・他界観(人は何故生まれ、死に、その後どうなるかと言った考え方)が根付く箇所が真っ白な更地のままではないかと思います。それ故、テレビや出版物、時には怪談や噂話レベルの面白可笑しく脚色された話を何の疑いも無く信じ、スポンジが水を吸い込むかのごとく吸収してしまう。
その極端な例が「死者は生き返る」では無いかと思います。しかし、「死者が生き返る」と答えた2割の中学生のことばかりも言っておられません。そんな中学生を育てた親年代・祖父母年代が間違いなく我々自身なのですから。

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我々が失った大切な何か anchor.png

我々はこの半世紀以上にわたって、“何か大切なもの”を犠牲にして今日の経済的な発展や、物質的な豊かさを手に入れてきたとよく言われます。
失った“何か大切なもの”とは何でしょう?
人によっては、誇り・名誉と答えるでしょう。また違う人は理想・志と答えるかもしれません。他にも慎み・謙虚さ・思いやり・信頼・・・等々、挙げ始めれば次々に言葉が思い起こされます。
今挙げた事柄がすたれ、余り実感できなくなった事は事実ですが、心の一つの表れであるそれらの事柄が一つ一つ別々にすたれて行った訳ではありません。結局はその根本である我々の心の中の重要な要素が欠け、その表れとして様々な事柄に歪が及んでいるのでは無いでしょうか。

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殺人は何故ダメなのか? anchor.png

一頃「人を殺す体験をしてみたかった」という少年の言葉に反応して、「殺人は何故ダメなのか」ということが話題になり議論されたことがありました。

  • 「法律に触れるから」
  • 「その人を苦しめ、その人の未来を奪い、周囲の人を苦しめるから」
  • 「人の力では、殺した人を元の状態に再生できないから」等々・・・

の意見がありましたが、どれも外れでは無いと思いますが、でも、どれも現世的な社会常識の範囲での説明で、今ひとつ説得力がありません。結局「ダメなものはダメ」と言う所に落ち着いていたように記憶しています。
「ダメなものはダメ」なのですが、しかしそれだけで今の若い世代に通じるのでしょうか?
「ダメなものはダメ」だけで通じるのは、我々のような中年世代以上の人だけなのかも知れません。
少なくとも中年以上の世代は、育ててくれた先人の信仰する姿や、生命に対する尊敬の念を日常生活の中で(「迷信染みたことをしている・・・」と思いながらも)目にして育ってきました。誰しも知らず知らずの内に、心の中に広く共通する信仰的な素地を身に付けて来た訳です。ですから「ダメなものはダメ」だけでも、言葉にならない事柄まで思い巡らせ、悟ることが可能でした。
しかし、本来そんな「信仰する姿」を伝えるべき世代であった我々が、「信仰」や「生命に対する尊敬の念」をないがしろにし、切り捨ててきた為か、今の若い年代には伝わって無くて当然ですし、信仰的な素地未発達な今の若い世代にそこまで察することは無理な事でしょう。
考えてみれば生命の誕生または死という事は、現世外に通じる事柄です。現世外に通じることを説明するのに、現世内の社会的常識だけで説明する事は元来不可能なことでは無いでしょうか。そこには現世を越えた視点で説明をする概念が必要だと感じます。そのキーワードは**「魂」(魂という考え方)だと思うのです。

皆さんならば、若い世代の方々にどのように今ある生命の大切さを伝えますか?

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仏教的な生死観・来世観 anchor.png

今更、おさらいするというのも何ですが、仏教で考える生死観・来世観を今一度確認をしておきたいと思います。仏教の生死観・来世観で中心になるのは「魂」であり、「六道輪廻」(ろくどうりんね)です。

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「魂」 anchor.png

 先ずは魂ですが、これは奇怪なものでもオドロオドロしい物ではありません。古来より洋の東西、民族を問わず「魂」という考え方を持っていました。魂とは「自分の死後、自分と思っている意識はどうなってしまうのだろう」と考える気持ち自身が魂なのかも知れません。つまりは心の一部分ともいえます。昔より魂が身体に宿っている状態を「生きている」状態。身体が生命活動を停止して魂が抜けた状態を死と考えて来ました。この理屈で言えば、今生きている我々の体内には魂が確実に宿っている訳です。
また、魂といえば非科学的な象徴のように感じられますが、科学はこの分野で未発達なゆえに魂は存在するとも、存在を否定するとも結論は出せていないようです。魂に対して勝手に否定的な態度を取っているのは、ひょっとしたら世界中で唯一日本人だけなのかもしれません。

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「六道輪廻」 anchor.png

 元々はインドの土着宗教の考えが出発点ですが、仏教の誕生発展の中で仏教の教義と融合して東アジア一帯にも輪廻の考えは根付いています。
 人(生物)は親から授かった身体に魂が宿し、初めて現世に誕生し現世での生を送る。その後、死を迎えた時、魂は身体から離れ生前行った業(善業・悪業)により、地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天道の6つのいずれかの世界に転生する。そして基本的には六道の中で生死を永遠に繰り返すと考えます。このうち、畜生道と人間道は我々が目にしている現在の世界で、地獄道を始とした世界は実際には目にすることは出来ません。

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人身の得難さ anchor.png

 六道輪廻の世界では人間だけを特別扱いはしません。命有るもの全てがこの六道輪廻のメンバーです。生身の身体が有り、そこに魂が宿ることで命が芽生えるのですが、これも人間だけに限ったことではありません。畜生道の犬や猫にしても同じです。
 現在の世界中の全人口が65億人らしいですが、想像してみてください人間以外の動物や虫まで含め、命有るものが共に魂を有するとすれば、魂の総数は一帯どのような数になることか?そしてその壮大な数の魂の中で、幸いにして人間という身体に魂を宿すことが出来た偶然を。
 「人間に生まれてこなかった方が良かった」と思う方もあるかと思いますが、両親に人間としてこの身体を授かり、前世の善業が実ってか、牛や馬ではなく人の身に魂を宿せ、今実際に人間として生き、人間として考え行動できる幸いを思えば、最低でも人間として正しい生き方を志さなければ、他の生物に宿ってしまった魂に対して申し訳が立ちません。
 お釈迦様はこの人身の得難さを、「ヒマラヤの頂上から糸を垂らして、海の中にある針に通すようなもの」と喩えられました。それだけ人間の身に魂を宿す事は偶然中の偶然です。
 そんな得難いこと極まりない折角授かった、人の身・人の命を自分の都合で奪ったり、また、自分自身で絶ったりする悪業はどれほど罪深いことか。そのような行いをすれば六道輪廻を巡り次の生を受ける場合、人間以外の違う身体にめぐり合う事は必至です。場合によっては地獄に生まれることもあるかもしれません。

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日本においてはこの考えを更に深めて、 anchor.png

「山川草木悉有仏性(さんせんそうもく・しつうぶっしょう)」とまで言います。
仏性とは命あるものが、仏になれる可能性のことです。山や川草木にも命・魂が有り、仏性があると、昔の日本人はそう考えました。人間も生けるものも皆等しく紙一重の存在、ひょっとしたら自分が人間以外の生き物に生まれていたかも知れないと思い、人間として自分に与えられた生を全うしようと素直に感じて生きて来たかと思います。
 この考えを下地に四季の移ろいの中に、諸法の無常を思いながら日本の文化は発展してきた訳ですから、現代の日本とそぐわないのも無理からぬことかも知れません。

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親子の関係 anchor.png

また、親子の関係も現代のようにベッタリしたものでは無かったように思えます。
 今の時代、子供は親が計画して“造る”ものであり、医学の力を借りれば多少無理しても子供は“造れる”もの、つまりは“親の都合で何とかなるもの”と多くの人たちが錯覚しているのでは無いでしょうか。
 魂という存在を重く考えていた頃は、親からは魂の入れ物である生身の身体を分けてもらい、神仏から魂(精根)を入れてもらって始めて生命を授かると考えていました。
 ですから、子は神仏からの授かりもの、親は身体(入れ物)を用意したに過ぎないと考え、子は親のものでも有りながら、神仏からの預かりものでもあった訳です。そこには親としての感情と共に、一歩引いた第三者的な客観的な親の視線が同居していたことかと思えます。現代の若い親世代のように子供を親に隷属する所有物ように考え、親の都合や好みで、子供をいじり回すような事は少なかったと思えます。
「二人の愛の結晶」なんて美化した甘ったるい親の思いの元、愛玩動物のように可愛がられ育てられた子供と、神仏からの授かりもの・預かりものと思い育てられた子供と、どっちが人間として幸せな育ち方をするのでしょうか?

 今初めてこのような考え方に触れた人は突飛な・・・現実離れしたことを・・・と考えられるかもしれません。しかし半世紀以上前の人々はこのような考えを意識・無意識の内に自分のものとして、己が人生を真剣に、人間として正しくあろうと生きていました。
 六道輪廻のような魂の存在を前提とした人生の考え方が奇異に映るか、「死体が生き返る」と言う考えに親しみが持てるかは、それぞれのお考えですが・・・


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初版日時: 2008-06-05 (木) 21:00:15
最終更新: 2008-06-05 (木) 21:03:19 (JST) (3333d) by admin