有感山名赤松和解式
想えば家祖赤松円心公が後醍醐天皇建武中興の鴻業に参加、其の功績は史上炳乎として光輝く所であり、足利政権樹立に果した役割も同族の自負するものである。将軍足利義教公の強圧に抗し弑逆した所謂嘉吉の変後天正に至る百余年に亘る山名赤松両族の播但各地に於ける壮烈な攻防戦が繰り拡げられた。吾人の家祖赤松彦五郎則尚は文安元年(一四四四)四月赤松満政と共に播磨の奪回を企てたが事ならず、同族持家公の討つ所となり(東寺執行日記文安二年四月四日)、赤松播磨守父子一族郎党百二十四人の頸は高辻河原に懸けられたとは記録の止める所である。
家祖則尚は転々居を替え各地を潜行、赤松元家による足利義政公への宥免も許容されたが、山名持豊公細
川公の経緯もあり播磨に下向して一族を集め鵤(いかるが)の檀特山に籠り一手は山名政豊の室山城に立ち向つた、戦は閏四月二十七日に始まったが、五月になると山名持豊と教豊に率いられた軍勢が大挙但馬から播磨に進攻してきた。書写山坂本城に拠った則尚は北の大軍に抗すべきすべもなく海路備前大島郡鹿久居島(岡山県日生町)に逃れたが、四方を扼され一族郎党二十二人と共に自刃し、五月十三日に法雲寺に於て持豊公により頸実検が行れた。思へば嘉吉の変後最後の抵抗者則尚公のこの終焉は痛恨極りなきことである
本土と鹿久居島とは一衣帯水の日生町に居住する筆者は康正元年四百五十有余年の昔を偲び一詩を賦奠し菩提を弔った次第である。
弔家祖赤松則尚公 家祖赤松則尚公を弔らう 鬼哭啾啾萬恨長 鬼哭啾啾萬恨長し 康正享徳夢茫茫 康正享徳の夢は茫茫たり 赤松則尚自裁跡 赤松則尚の自裁の跡 往事追懐濁断腸 往事追懐して濁り断腸
恰もよし平成元年四月二十三日、星霜五百四十余年を経て山名、赤松両軍子孫による和解供養慰霊祭の奉修といい、平成二年五月吉日両族末葉による供養塔の建立といい、往事を想起して喜びは限りないものがある。
拙ない歌を献じ菩提を弔うものである。
現世(ウツシヨ)に刃の下に争へど
共に語らん蓮の台(ウテナ)で
想えば嘉吉の変より天正年間一百有余年山名赤松一族の興亡を賭して修羅の巷にまみえた戦士は死なば皆仏子、浄土の蓮華台上であの日あの時あのことがらを語りあって末孫の和解供養を享受されるであろうと願望するものである。
合掌
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