ほんとの犠牲者は誰?-嘉吉の乱の再検討-
山名氏と赤松氏とが、播磨国の領有をめぐって抗争を繰り返すきっかけとなったのが、“嘉吉の乱”である。この事件は、通説として、反逆者は赤松満祐で、犠牲者は将軍義教と言うことになっている。しかし、この事件の経緯を仔細に調べてみると、ほんとは誰が犠牲者であったのか、わからなくなってくる。
そして最後には、みんな、そうならざるを得ない宿命を負うて生れあわせた人々によって演じられた、人生劇ではなかったのか、という感慨に打たれるのである。
一、くじ引きできまった将軍。
足利募府第四代将軍義持は.応永元年(一三九四)九才という若さで将軍職をついだ。幸い斯波義将らの補佐によって、比較的平穏な生活を送ったが、漸く職に飽きて、応永三十年(一四二三)その子義量に譲り、出家して道詮と号し遊楽な生活に入った。しかるに義量は生来虚弱な体質の上に、酒を飲み過ぎて健康を害し.将軍職二年、応永三十二年(一四二五〉僅か十九才で死んでしまった。やむなく、義持が再度復帰して政務をみたが、これも三年で、正長元年正月(一四二八)死んだ。四十三才であった。
義持には、もう後嗣とすべき子がなかったので、弟の中から選ぶしか方法がなかった。時の管領畠山満家は、諸将と相談の上で、四人の弟-いずれも早く出家して寺に入っていた-青蓮院門跡義円・大覚寺門跡義昭・梶井門跡義承・香厳院尊満を、六條八幡宮に集めた。
満家が、しかめ面で、四人に向い、
「唯今よりクジを引いてもらいます。クジに当った人が、本日から六代将軍になってもらいます。」
クジに当ったのは青蓮院義円であった。彼は名も義教と改めて将軍の座についた。
1、人には厳しく、己には甘い。
今まで、お寺の中でひっそり仏に仕える修業の生活が、一夜あけると、日本一の権力者の座に着いたのであるから、あまりにもその変化の大きさにとまどったことであろう。
その彼が、第一に手をつけたのが、宮中に於ける風紀の粛正であったという。
当時の宮中では、公卿と女官たちとの仲がルーズになっていたと言う。しかし、それももとはと言えば、前将軍の義持が、宮中に入りびたって、女官と関係したりして、男女関係をルーズにする手本を示した結果だともいわれている。
義教は、将軍宣下を受けた永享元年(一四二九)の翌年五月に、宮中に対して、
一、宿直の女官と、近侍の公卿とは、席を混合してはならない。
二、女官が、男子に対して面接する必要の時には、壁を隔てて申すべし。
と厳達し、ちょっとでも嘩の立った公卿達を厳罰に処したという。
当時のことを詳しく記録した『後鑑』の、永享六年六月十二日の頃に、
「凡そ左相府(義教)政務以来、所録を収公し、また籠居を命ぜられる者、七十余人に及ぶ」とある。
その内訳は、公卿五十八人、僧侶十三人、女官四人、計七十五人が処罰されている。
東坊城益長は、儀式中に失笑したとのことで、所領ニケ所とり上げ、閉門を命ぜられた。また、侍女小納言局は、申次の誤りで、髪を切られ、寺へ入れられてしまったと言う。
それだけ、他人に対し厳しかった義教自身の女性関係はどうであったかというと、正室の(日野)尹子の外に、九人の側室があったという。
関白殿息女・衛門亮殿・小宰相殿・洞院殿息女・北向様・小弁殿・左京太夫殿・日野鳥丸殿・尹子の妹日野重子の九人である。
本人は、こんな事は、将軍の特権であって他人から非難されることでないと己惚れていたようであるが、不満を抱く人が多くあったことは、想像に難くない。
果たせるかな、永享六年六月九日の夜、日野中納言の邸宅に賊が忍び入り、正室勢子、側室重子の兄、義資を殺して、首を切った者があった。
えてして、他人を責めることに急な者ほど自分に甘いと害われるが、義教などは、その典型と言わねばなららない。
2、遊び好きの、美食好き。
公卿や家臣、弱い侍女などまで叱りとばし重い罰など加えながら、将軍は何をしていたかと言うと、毎日のように、寺院や部将宅に出向いて接待を受けていた。
試みに、『後鑑』の永享十一年六月の項をのぞいてみると、
二日 景徳寺
三日 等持寺
六日 相国寺
七日 乾徳院
八日 天龍寺
九日 鹿王院、三宝院
十一日 瑞雲院
十二日 西芳寺、赤松満祐亭
十三日 鹿苑院
十四日 靈鷲寺
十五日 正持庵
十七日 小松谷
十八日 清水寺
十九日 保安寺
二十日 靈松院
二十一日 春熈軒、山名持豊亭
二十三日 竜雲寺.赤松満祐亭
二十四日 鹿苑寺
二十五日 金剛院
二十六日 泉涌寺
二十七日 長福寺
二十八日 雲居庵
二十九日 細川持之亭
三十日 北野宮寺
「将軍諭成り」とあれば、寺院でも、部将亭でも、精いっぱいもてなしたにちがいない。毎田が遊楽三昧、これでは、本職としての将軍政務はどうなっていたのか。あきれざるを得ない。しかも、不思議なのは、今月二回までも、赤松満祐亭に出向いていることである。
3、目ざわりの者には強圧
将軍義教にとって、最初に目ざわりになったのは、関東管領足利持氏であった。
関東管領と言うのは、足利尊氏が、長子義詮を二代将軍とすると共に、次子基氏を鎌倉に置いて、関八州を統括させたのが始めで、後には、奥州をも併せ統治させたもので、相当有力なものである。
その基氏から四代目が持氏である。義持将軍が死んで、後嗣がない事がわかっているので、持氏は、東都に上って将軍になるべく、内々運動もしていたのであるが、彼が軽率な人間であることを知っていた畠山満家は、これをしりぞけ、クジビキで将軍をきめてしまった。
不満やる方ない持氏は、「還俗将軍何する者ぞ」と軽く見、幕府の命令に対しても、しばしば反抗の態度を示した。
このような持氏に対して、義教は、将軍の威光を見せてやろうと、永享四年九月に、富士山見物へと駿河国に出かけて行った。供奉の軍勢六千余騎、昔、源頼朝が催した、富士の裾野の巻狩にも優るものであった。
持氏の方も、あくまでも強気で、出迎えもしなければ、一行に加わろうともしなかった。
こんな持氏に対して、執事の上杉憲実は、いろいろ諌めていたが、持氏は聞こうとしない。だんだん二人の仲は気まずくなり、遂に永享十年八月、決裂して、憲実は、領国上野国白井に走った。一方持氏は、憲実討伐の軍を起こした。
憲実は、将軍に対して、救援方を懇請した。
将軍義教は、時こそ来たれと、関東、奥羽の諸将に、持氏追討の令を下した。
持氏は、幕府の軍に攻められて敗れ、捕われて、鎌倉の永安に押しこめられた。執事の上杉憲実が、助命の歎願をしたけれども聴き入れられず、永享十一年二月十日、自害して果てた。四十二才であった。
持氏には、安王丸、春王丸、永寿丸と三人の子があった。持氏の残党が、この三人を奉じて、下総国結城の結城氏朝を頼り、関八州の豪族に呼びかけて、反旗をひるがえした。
幕府は、すでに隠退して、伊豆の寺に入っていた上杉憲実を口説き落して総大将として結城の城を攻めさせ、城遂に落ち、氏朝ら皆戦死し、安王丸ら三人は捕えられ、永享十三年(改元して嘉吉元年)五月十六日美濃国垂井で斬られた。安王丸十三才、春王丸十一才そして六才の永寿丸は、おくれて処分される筈のものが、六月二十四日、義教の死によって命助かり、後に古河公方足利成氏となった。
次に目ざわりになったのは、弟の大覚寺門跡義昭であった。もともとこの人は、「性慈仁にして、大慶量の人物」と評されたことのある人であったが、クジに外れ、異母兄の義教が将軍になったのを見ると、やっぱり不満な心がくすぶり始め、永享九年七月、寺を出、
京都も捨て、大和国の越智維通を頼り反旗をひるがえした。
義教は、四職の一人、一色義貫とその兄土岐持頼に討伐を命じた。反乱軍は京軍に敗れ越智は斬られ、義昭は九州へ逃れて島津氏を頼ったが、義教の憎しみは強く、島津忠国に命じて斬らせた。嘉吉元年三月十三日、義昭は、三十七才、短い生涯の幕を閉じた。
次に義教によって理不尽に殺されたのは、一色義貫・土岐持頼兄弟である。この兄弟が大和へ討伐に出かけている留守中に、義貫の夫人が美人なので、義教が殿中に召したところ、夫人はカゴの中で自刃してしまった。これが知れると都合が悪いので、刺客を向けて、軍中で、兄弟を殺してしまった、(巷間では、義教は、一色義貫夫妻や土岐持頼の幽霊がつきまとって苦しめられていたと噂されていたと『応仁略記』にある。)
4、えこひいき
権力の座にある人の評価は、もちろん、本人の力量によって評価されるのが、第一義であるが、側近の善悪によって、相当左右されるものである。一般的に、阿諛談迎合する者が愛せられ、直諌する者はしりぞけられる事が多いものである。
将軍義教も、その例に洩れず、彼に愛せられた者は、美男子で、おべっかの上手な者たちであった。
代表的な者は、一色五郎に赤松貞村である。
一色五郎教親は、伯父に当る一色義貫が.将軍に殺された後、その所領をたくさん貰った男であるし、赤松貞村も、永享十二年の三月に、一族の赤松伊予守義雅(満祐の弟)の所領を、将軍がとり上げて彼に与えたものである。義教将軍が、赤松満祐邸に赴いた時ももちろん随従して行って屠り、将軍が殺される時、二人ともいち早く逃げ出している。
三、赤松満祐と言う人物。
法雲寺(法雲寺 (上郡町))蔵の赤松大系図によると、赤松光範の第五子であったが、義則に養われて、その職をついで、左京太夫、大膳太夫、播磨・備前・美作三国の守護職を兼ねた実力者である。
応永十八年~二十年にかけては、幕府の重職である侍所頭人になっている。関東管領持氏叛乱の時なども戦功を建てている。しかし、将軍からは、毛嫌いされるところがあったものと見えて、応永三十四年(一四二七)将軍義持が、満祐の所領三国を奪って、一族の持貞に与えようとしたことがあった。怒った満祐は、自邸に火をつけて、播磨に帰ってしまった。義持は、細川持元・山名満熈をやって討たせようとしたが、諸将が、持貞の驕奢無礼であることを将軍に訴えたので、かえって持貞が自殺したので、満祐は許され、これを機会に剃髪して、性具入道と称して京都に帰った。
その後も、正長元年~永享四年まで、侍所頭人に再任、更に永享八年~十年頃に三任、幕府の枢要の地位にあった。ところが、将軍とはどうもウマが合わず、義教は、持貞の兄満貞の子貞村を偏愛して、又々所領を奪われるかも知れない機運を察して、機先を制して、将軍殺害の挙に出たのであった。
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