中世備後国と山名氏 anchor.png

山名年浩

確かに、備後国は中世において山名氏の領国であった。しかし、本稿で明らかにされるように、一族内の複雑な要因によって支配権が変転する様は必ずしも闡明されてきたとは言いがたい。諸資料を整理して、この点をほぐしておくのがここでの目的である。

備後をめぐる山名氏の興亡は大きく三つの時期に区分して考えることが出来る。
第一。応仁の乱以前に沿ける備後攻略期。
第二。応仁の乱に溶ける、西軍と東軍の対立が備後において激化した時期。
第三。乱後の山名]族内の対立から戦国時代の直前までの時期、である。

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一、応仁の乱以前における山名氏の備後攻略 anchor.png

遠く文応・文永期(一二六〇~七五)には、「山名権左衛門入道氏正なる者.・居りしが、弟備中に殺さる。後氏正が子・備中を討って、再び此の城(御調郡下津の桜山城のことか-筆者)に拠りし」(『姓氏家系大辞典」第三巻、太田亮著、角川書店、昭和三八年)という一文があり、これが備後における山名氏の存在を示す最も古い記述の一つと考えられる。
以後、山名氏が備後における支配の画期をなしたのは(南朝年号)正平一七年(一三六二)の時氏による備後攻略であった。
新田氏から独立した山名時氏の期には--一時、観応の政変で足利氏との対立期もあったが--、貞治二年(一三六三)足利氏と手を結んで後、但馬・因幡・伯耆・丹波・美作の王国を領有していた。備後が公式に山名氏の領国として認められるのはそれから一六年後の康暦元年(一三七九)時義が守護職に任ぜられた時からである。しかし、募府権力の確立を目ざす足利氏が、時氏の四男氏清とその弟時義の子時熈(時義の後、備後守護職を継承している)を対立させたことは周知のとおりである(いわゆる明徳の乱)。
この乱によって、一一年間山名氏の備後支配は休止している。応永二年(一四〇一)時熈が改めて備後守護職に任じられて以後、山名氏の支配は安定した状態が継続していく。
当時、守護所は尾道に置かれ、守護代として現地での責任を受けたのは太田垣一族であった。『備後古城記』には太田垣新六の名が記されている。この期の山名氏の権勢を示す物財としては、時熈の後継持豊の名が残されている尾道の西国寺焔魔堂である。一見に値するこの寺の「再興寄付帳」には、山名教時・山名常勝・山名熈高・山名教之ら一族の名が並び、地元の郷土史家によっても深い関心がもたれている。*1
時熈の再任から応仁の乱までの六七年間は備後の支配権が強固で安定したものになつでいった。しかし後の争乱の条件も形成されている。嘉吉二年(一四四二)け持豊が次子是豊を福山の神辺城*2に派遣したのがそれである。備後を二分した持豊と是豊の父子の争いはこの安定期を終らせていく。

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二、応仁の乱と連動した備後の争乱 anchor.png

何故に是豊は父持豊に対立したのであろうか。細川勝元の尽力によって、嘉吉の乱で将軍義政に殉じた山名熈貴(一つに高)の遺跡を継いだことに原因を求める説*3、熈貴の祖父氏冬は宗家の持豊の祖父時義の兄であることから説明するもの等があるが、いずれにせよ強大化した宗家への反感があったことは時代背景としても解することが出来る。
ともかくも、京での対立は備後にもそのまま持込まれた。西軍の持豊・長子政豊と東軍の是豊という山名一族の対抗関係は左図のように備後の国家を二分する図式として示すことができる。

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両軍の形勢は次の三つの事件によって変化していった。一つは、文明二年(一四七〇)守護代宮田教言が庄原の甲山城に入り西軍の態勢を整え東軍を圧迫したこと。二つは、翌文明三年東軍の是豊が京より備後へ戻り、逆に備後を征圧したこと。三つは東軍を側面から援護していた隣国安芸の小早川氏の降伏を契機に是豊側の勢力が衰ていったこと。これらによって、京で応仁の乱の講和がなされた文明六年の翌年、備後でもようやく決着がついた。西軍の勝利により、是豊は中国山地を北上し石見国へ逃れている。

是豊のことについては、『山名家譜』(宮田靖國編著、六甲出版、昭和六二年)では殆んどふれられてはいない。宗家中心の系譜ということからであろう。

乱の終結後、政豊は但馬・備後の二国を支配していった。このころの備後守護代は宮田教言であった。領国二国の立場に置かれた政豊は乱後の文明一五年、嘉吉以来の恩賞の地播磨の奪回をはかったが、失敗し二国の守護はその次子又二郎俊豊に継承された。

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三、乱後の山名氏 anchor.png

しかし、一族内の内紛は続発していった。室町時代の基本史料の一とされる相国寺の「蔭涼軒目録」(『仏教全書』所収)によると、明応の政変によって味方を
多く失った俊豊は若狭から但馬に戻り、ここで父政豊・弟致豊との合戦に臨んでいる(明応二~五年)。決着のつかないこの但馬の合戦後、俊豊は備後へ入国したが、これをめぐって再び国家は二分された。明応六~七年頃の庄原を中心とした戦は次のような対抗関係として示すことができる。

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この合戦は明応七年の和解によって、但馬は政豊、備後は(俊豊の弟)致豊の支配という形で結末するが、足かけ三〇年を越える一族の内紛によって、山名氏の力量は衰えていった。「文亀二年(一五〇一)大内介義興の攻撃を受けて後は大内方に属し」(『陰徳太平記』)、山名氏はその勢力を維持するのに専らであったという。この期において、山名氏の守護としての実効権力は失われていたとみてよかろう。下って、天文五年(一五三六)備後福山の神辺城主山名氏明(宮内少輔、従五位)の名が『山名家譜』『姓氏家系大辞典』等の書物に記載されている。神辺域は南北朝期より山名氏の拠点城であるが、この城主氏明とその子氏政(一つに忠勝)は山名系図からみてその位置が明瞭でない。宗家が防長と大内氏と結んだのに対し、出雲の尼子氏と結んだ氏明・氏政は大内氏の大軍を相手に戦い、天文七年*4(一五三八)自害している。
『山名家譜』には「氏政が郎等藤井能登入道、大江田隼人介は氏政の子を伴ひて因州により、後京に赴く」とある。かっての是豊と同様中国山地を越えたのである。なお、大内氏側神辺攻めの先鋒であった杉原理興という武将が後に、山名性に改めている。妻が山名家の出自という因縁による(『広島県の歴史』、広島県、昭和四四年、一〇五頁)とされているが系譜を明らかににできる史料は無い。山名理興は西の大内、北の尼子という押し寄せる二つの勢力の狭間にあって苦難の生涯を終えている。

総じて、備後の守護は一本で示すと、時氏-時義-時熈-持豊-政豊-俊豊-致豊という宗家の系統で貰のかれている。この点因幡の国の守護の系譜*5との相違が明らかである。*6



*1 (1)たとえば『備後の武将と山城』(田口義之著、芦田川文庫、昭和六一年)。
*2 (2)神辺城で南北朝初期に、当時の備後国守護朝山景連によって築かれたものであり、山陽道の拠点であった。
*3 (3)この点では、「山名宗全」(安西篤子著、『下剋上』、集英社、昭和五九午所収)では、是豊と勝豊を混同した部分が含まれている。
*4 (4)『陰徳太平記』(八一巻四一冊)は元緑年間に毛利氏を中心に書かれた軍記であり、この点の留意が必要であろう。
*5 (5)因幡の国の守護は次のようになッている。時氏-氏重-氏冬-氏家-熈貴-勝豊-登時-豊重-豊頼-豊治-誠通-源七郎-豊数。
*6 (6)宗家系図に記載のない山名姓の人物は歴史上数多い、これらを丹念に整理していく作業は我々の課題の一つである。

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