1: 2016-02-24 (Wed) 21:16:07 admin source 2: 2016-02-24 (Wed) 21:19:11 admin source
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-前書きに代えて+*前書きに代えて [#ta9b4cb1]
この度、前住職の手による「平成版 法雲寺縁起」が刊行されることとなりました。書名の通り本書の内容は法雲寺の前身とされる臨済宗の禅苑の成り立ちから始まり、江戸時代に藩公菩提寺と定められた日蓮宗法雲寺の時代、そしてその後、何等かの事情により再び宗旨を天台宗に変更した天台宗法雲寺の時代と……それぞれの変遷に関し既存の史料に加えて、新たに法雲寺と同時期に日蓮宗から天台宗に転宗された(させられた?)ご寺院から提供頂いた史料を加えて、時系列順に再整理した「法雲寺史」的なものとなっております。 この度、前住職の手による「平成版 法雲寺縁起」が刊行されることとなりました。書名の通り本書の内容は法雲寺の前身とされる臨済宗の禅苑の成り立ちから始まり、江戸時代に藩公菩提寺と定められた日蓮宗法雲寺の時代、そしてその後、何等かの事情により再び宗旨を天台宗に変更した天台宗法雲寺の時代と……それぞれの変遷に関し既存の史料に加えて、新たに法雲寺と同時期に日蓮宗から天台宗に転宗された(させられた?)ご寺院から提供頂いた史料を加えて、時系列順に再整理した「法雲寺史」的なものとなっております。
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以下に時代背景等に関する私なりの補足を若干付け加えます。法雲寺縁記を読まれる際の参考として頭の片隅に置いて頂けば幸いです。 以下に時代背景等に関する私なりの補足を若干付け加えます。法雲寺縁記を読まれる際の参考として頭の片隅に置いて頂けば幸いです。
-寛永時代の時代背景+*寛永時代の時代背景 [#c660c544]
法雲寺と言う名が記録に見られるようになるのは、村岡山名の菩提寺と定められた寛永19年(1642)からのことです。時代は天下分け目の「関ヶ原合戦」から40年が過ぎ、戦国時代は二昔以上も前の事で、豊臣政権を経て、徳川幕府の時代。 法雲寺と言う名が記録に見られるようになるのは、村岡山名の菩提寺と定められた寛永19年(1642)からのことです。時代は天下分け目の「関ヶ原合戦」から40年が過ぎ、戦国時代は二昔以上も前の事で、豊臣政権を経て、徳川幕府の時代。
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この頃までに徳川幕府は、江戸時代を通じ現代にまで影響を与える各種の制度を確立しています。江戸の文化を地方に伝搬し、諸国の物流を活発化させた参勤交代制。檀家制度の基礎となった寺請制度。その他にも禁中・宗門・公家・武家に関する諸法度も制定しています。勿論、これらは徳川幕府の支配体制を盤石とする為に定められたものでしょう。戦国時代は「武力こそが世を治める」と言う時代でありましたが、江戸時代に入ると世は変革より安定を求め、武力を後ろ盾とした治世から「理によって世を治める」時代へと変貌していった頃でもあります。「力こそが全て」の時代から「法秩序に従った時代」への転換期でも有ったのではないでしょうか。 この頃までに徳川幕府は、江戸時代を通じ現代にまで影響を与える各種の制度を確立しています。江戸の文化を地方に伝搬し、諸国の物流を活発化させた参勤交代制。檀家制度の基礎となった寺請制度。その他にも禁中・宗門・公家・武家に関する諸法度も制定しています。勿論、これらは徳川幕府の支配体制を盤石とする為に定められたものでしょう。戦国時代は「武力こそが世を治める」と言う時代でありましたが、江戸時代に入ると世は変革より安定を求め、武力を後ろ盾とした治世から「理によって世を治める」時代へと変貌していった頃でもあります。「力こそが全て」の時代から「法秩序に従った時代」への転換期でも有ったのではないでしょうか。
-村岡山名と藩都移転事業+*村岡山名と藩都移転事業 [#h576a755]
村岡山名は鎌倉幕府成立時から続く清和源氏の名流として、徳川幕府でも重んじられ、吉良氏等と同じく大名待遇の旗本として将軍お側の役を担いました。しかし石高は6700石と小禄でした。名流として重んじて頂けるのは名誉なことですが、大名級のお付き合いはせねばならず、しかし懐具合は万石大名のようには行かずで、決して豊かとは言えなかったと想像します。 村岡山名は鎌倉幕府成立時から続く清和源氏の名流として、徳川幕府でも重んじられ、吉良氏等と同じく大名待遇の旗本として将軍お側の役を担いました。しかし石高は6700石と小禄でした。名流として重んじて頂けるのは名誉なことですが、大名級のお付き合いはせねばならず、しかし懐具合は万石大名のようには行かずで、決して豊かとは言えなかったと想像します。
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豊かな藩であるならば、建物等は新築新品で対応するでしょうが、小藩小禄の上、河川工事が優先の状況では、再利用可能なものは出来る限り有効活用して、初期の村岡城下町を形作って行ったのではないでしょうか。 豊かな藩であるならば、建物等は新築新品で対応するでしょうが、小藩小禄の上、河川工事が優先の状況では、再利用可能なものは出来る限り有効活用して、初期の村岡城下町を形作って行ったのではないでしょうか。
-菩提寺は新寺建立か、既存寺院の流用か+*菩提寺は新寺建立か、既存寺院の流用か [#fcfbdcd6]
村岡には法雲寺の他に2件(厳浄寺・大運寺)のお寺があります。この二ヵ寺は、山名家家臣や町人等の菩提寺として城下町建設が始まった数年後に、藩内の10キロ近く離れた集落から移設されて来ています。幕府の当時の宗教政策は寺院の統廃合を進めていた時期であり、たとえ藩公菩提寺と言えども新寺建立は難しく、また、経済上の理由からも、既存寺院を再利用したと考えるのが自然ではないでしょうか? 村岡には法雲寺の他に2件(厳浄寺・大運寺)のお寺があります。この二ヵ寺は、山名家家臣や町人等の菩提寺として城下町建設が始まった数年後に、藩内の10キロ近く離れた集落から移設されて来ています。幕府の当時の宗教政策は寺院の統廃合を進めていた時期であり、たとえ藩公菩提寺と言えども新寺建立は難しく、また、経済上の理由からも、既存寺院を再利用したと考えるのが自然ではないでしょうか?
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確かに法雲寺には山名公以前から所有する飛地境内(観音山墓園)や、同じく山名公以前から伝わっていた仏餉田(現在の村岡地域局周辺)がかつては有りました。これらは山名公菩提寺となる以前からお寺があったという傍証と言えます。 確かに法雲寺には山名公以前から所有する飛地境内(観音山墓園)や、同じく山名公以前から伝わっていた仏餉田(現在の村岡地域局周辺)がかつては有りました。これらは山名公菩提寺となる以前からお寺があったという傍証と言えます。
まあ、一般的には法雲寺の前身が「報恩寺」でも「名称不詳の禅苑」でもどちらでも良いことですし、現在に何の影響も無いことです。しかし、創建不詳では記録に残る1642年を法雲寺の始まりと為ざるを得ず現在まで約370年余り。これが「報恩寺が前身」となれば1375年創建にまで遡りますから640年。ほぼ2倍の歴史の開きとなります。お寺を預かっている立場としては、チョット軽く考える訳にはいかないところです。 まあ、一般的には法雲寺の前身が「報恩寺」でも「名称不詳の禅苑」でもどちらでも良いことですし、現在に何の影響も無いことです。しかし、創建不詳では記録に残る1642年を法雲寺の始まりと為ざるを得ず現在まで約370年余り。これが「報恩寺が前身」となれば1375年創建にまで遡りますから640年。ほぼ2倍の歴史の開きとなります。お寺を預かっている立場としては、チョット軽く考える訳にはいかないところです。
- +*余談ですが・・・ [#wa351a57] 
-余談ですが、『法雲寺』・『報恩寺』をカタカナで書きますと『ホウ○ウンジ』・『ホウ○オンジ』と「ウ」と「オ」が一文字違うだけ。言い間違い、聞き違いのレベルです。(実際、電話口でよく報恩寺と間違われます。)どうですか?何となく「報恩寺」→「法雲寺」と、そんな気になってきませんか?+余談ですが、『法雲寺』・『報恩寺』をカタカナで書きますと『ホウ''ウ''ンジ』・『ホウ''オ''ンジ』と「''ウ''」と「''オ''」が一文字違うだけ。言い間違い、聞き違いのレベルです。(実際、電話口でよく報恩寺と間違われます。)どうですか?何となく「報恩寺」→「法雲寺」と、そんな気になってきませんか?
「法雲寺の前身」=「幻の寺・報恩寺」のご判断は、各自にお任せ致しますが、先ずは本書の頁をめくってご一読ください。 「法雲寺の前身」=「幻の寺・報恩寺」のご判断は、各自にお任せ致しますが、先ずは本書の頁をめくってご一読ください。
-平成27年7月  +RIGHT:平成27年7月 但馬村岡 法雲寺第20世 廣隆 識
-但馬村岡 法雲寺第20世 廣隆 識+
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