衣食足りて何を知る?
思いがけない師走の大雪に見舞われ、お正月の仕度も整わないまま新年を迎えました。明けて平成18年です。本年は少しでも明るい歳になるように念願いたします。
さて、昨年を振り返ってみますと、4月の死者百名以上出したJRの脱線事故、幼い命をもてあそぶような事件が連続したかと思うと、とどめは安全安心を第一に求めた筈の我が家が、劣悪な欠陥住宅であったという「耐震強度偽装問題」・・・何から何まで何でそこまでするのかな?とやり切れない気持ちになります。
自分勝手な利益や欲望を満たす為に他者を欺き、犠牲を強いてまで果たして得る物が有ったのか大いに疑問です。物事の判断が出来ない人、精根(しょうね)が腐った人間が余りにも多くなりすぎたということでしょうか。
また、次々に起きる呆れ果てるような出来事の連続で、報道や情報の洪水に浸ってしまっている我々も「またか!・・・もううんざり!」と感覚が徐々に鈍感になってきていることにも、少し怖い面を感じます。
良く耳に馴染んでいる故事成語に「衣食(いしょく)足りて礼節を知る」と言うのが有ります。「人間、衣食が足り生活が安定すれば、自然と道徳や礼儀もわきまえるようになる」と言った意味合いでしょうか。
思い出してみれば我々はこの故事成語を良く聞かされたような気がします。
「豊かな時代となれば貧しさから起きる様々な問題も解決できる。・・・だから皆豊かさを目指そう・・・」と直接は言われませんでしたが、昭和中期から平成初期はそんな雰囲気の中で、一途に豊かさを目指し突き進んで来た様に思います。
しかし、今や充分過ぎるほどに衣食は満ち足りているのに、礼節を知るどころか、世相は悪くなる一方です。
豊かさと言うものを考え違いし、目先の利益や欲求に拘る余りに、本来大切にしなければならなかった事を忘れてしまったのでしょうか。
比叡山を開かれた伝教大師・最澄様は御遺戒の中でこう申されています。
「道心(どうしん)の中に衣食あり、衣食の中に道心なし」
「道心」とは求道心とも解せますが、自分の信じる信念や理想の実現を目指す「志(こころざし)」とも理解することもできます。「衣食」は先ほどと同じく、衣食が足りて生活が安定することです。
大師の言葉を解すれば・・・「道を求める志(こころざし)を保てば自ずと生活は成り立ち、だた生活の事のみ追い求めても心に何の得るところは無い」となるのでしょうか。先ほどの「衣食足りて礼節を知る」とは、全く逆の発想です。
大師の言葉の後半部分「衣食の中に道心なし」(だた生活の事のみ追い求めても心に何の得るところは無い)は正に今の日本の状態そのもののように思えます。
残念ながら「衣食足りて礼節を知る」の故事成語は、今の日本では馴染まず、「衣食足りて、更に欲しがる」といった状況です。
大切なのは、物が先ではなく、心・志なのです。
心なくしては物質的な豊かさも無駄に浪費をするのみで、きりが有りません。
今の日本は何の志も無いものだから、既に充分豊になっているのに関わらず、更に手当たり次第に欲張ってしまい、心の中は、「もっと、もっと」と言う気持ち以外の何も残らない。そんな人々が巷に溢れているのですから、世相が健全な方向に進む筈が有りません。
「道心の中に衣食あり」です。
道心とするところは人それぞれ異なるでしょうが、衣食(生活)は道心の中にあるのです。
目的も無く、衣食(生活)のみを追い求めて居てもきりが無いのでは無いでしょうか?
皆さんにとっての「道心」とは「志し」とはなんでしょう?
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