1: 2009-07-21 (Tue) 22:56:24 admin source
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 +#navi(寺報・書籍/山名赤松研究ノート)
 +*表紙 [#bbc34d7a]
 +#ref(kenkyuNote_01.jpg,mw:240,mh:240,around,right)
 +-序にかえて…金井元彦
 +-供養塔建立に思う…山名晴彦
 +-ほんとの犠牲者は誰?-嘉吉の乱の再検討・・・川濱一廣
 +-歴史は生きている・・・田中一郎
 +-佐治のやまんどさん・・・中島憲仁
 +-有感山名赤松和解式・・・萩原初治
 +-赤松軍と山名軍の合戦史・・・宮田靖國
 +-中世備後国と山名氏・・・山名年浩
 +-山名・赤松両氏の黄昏・・・吉川広昭
 +-山名氏、赤松氏両軍陣没諸霊供養塔、建立の記・・・事務局
 +-あとがき
 +平成2年5月
 +山名赤松両氏顕彰会
 +*巻頭写真 [#ob057b93]
 +|&ref(巻頭写真.jpg,mw:480);|
 +|供養塔全景、南千畳の城壁を望む、完成した宝篋印塔|
 +
 +*序にかえて [#y762fa56]
 +RIGHT:金井元彦
 +#clear
 +拝啓 山名赤松両氏供養塔建立問題に付き種々御配慮賜わり厚く御礼申し上げます。
 +拙宅は国侍にて赤松の幕下であり祖先より七代迄は太尾姓と云う事になって居りますが内容は全然分りません。酒井姫路藩公に仕える迄は榊原藩公に仕官して居りました。以上の状況ですので会友として寸志を寄附させて頂きます。甚だ延引且些少にて失礼ですが御了承願い上げます。
 +三月三日
 +
 +-編集部註 太尾城は神東郡陰山郷太尾村(現姫路市豊富町太尾)にあり、播陽古城記には城主に太尾兵庫頭与次の名がみえる。
 +*供養塔建立に思う [#y4b4e356]
 +RIGHT:山名晴彦
 +#clear
 +平成二年五月二十六日。この日は赤松・山名両氏の歴史に新しく一頁を加える記念日となろうと思います。
 +顧みますと両氏は、村上源氏赤松氏と清和源氏山名氏、南北朝時代の南と北、共に室町幕府四職の雄、さらには本領播但の地が背中合わせなどという因縁から戦国百数十年もの間攻防に明け暮れました。武門の習とはいえ痛ましい限りです。
 +それが今日、かって先祖の面々も願わなくはなかったであろう和解提携という機運に遭い、ここに両軍慰霊の供養塔が建つのです。
 +ささやかな碑ではありますが、日本史千五百年、他に類例をみない快挙ではないでしょうか。どうかこれを縁として、ただに両氏末裔ばかりではなく、世の多くの方々に、人間の生きざまを思い入っていただきたいとねがうものであります。
 +RIGHT:(全国山名氏一族会総裁・村岡山名氏第十四世)
 +#clear
 +*ほんとの犠牲者は誰?-嘉吉の乱の再検討- [#r024eb6a]
 +RIGHT:川濱一廣
 +#clear
 +山名氏と赤松氏とが、播磨国の領有をめぐって抗争を繰り返すきっかけとなったのが、“嘉吉の乱”である。この事件は、通説として、反逆者は赤松満祐で、犠牲者は将軍義教と言うことになっている。しかし、この事件の経緯を仔細に調べてみると、ほんとは誰が犠牲者であったのか、わからなくなってくる。
 +そして最後には、みんな、そうならざるを得ない宿命を負うて生れあわせた人々によって演じられた、人生劇ではなかったのか、という感慨に打たれるのである。
 +
 +**一、くじ引きできまった将軍。 [#dd159697]
 +足利募府第四代将軍義持は.応永元年(一三九四)九才という若さで将軍職をついだ。幸い斯波義将らの補佐によって、比較的平穏な生活を送ったが、漸く職に飽きて、応永三十年(一四二三)その子義量に譲り、出家して道詮と号し遊楽な生活に入った。しかるに義量は生来虚弱な体質の上に、酒を飲み過ぎて健康を害し.将軍職二年、応永三十二年(一四二五〉僅か十九才で死んでしまった。やむなく、義持が再度復帰して政務をみたが、これも三年で、正長元年正月(一四二八)死んだ。四十三才であった。
 +義持には、もう後嗣とすべき子がなかったので、弟の中から選ぶしか方法がなかった。時の管領畠山満家は、諸将と相談の上で、四人の弟-いずれも早く出家して寺に入っていた-青蓮院門跡義円・大覚寺門跡義昭・梶井門跡義承・香厳院尊満を、六條八幡宮に集めた。
 +満家が、しかめ面で、四人に向い、
 +「唯今よりクジを引いてもらいます。クジに当った人が、本日から六代将軍になってもらいます。」
 +クジに当ったのは青蓮院義円であった。彼は名も義教と改めて将軍の座についた。
 +
 +**二、将軍義教の性格。 [#x275ba97]
 +***1、人には厳しく、己には甘い。 [#jbf9d568]
 +今まで、お寺の中でひっそり仏に仕える修業の生活が、一夜あけると、日本一の権力者の座に着いたのであるから、あまりにもその変化の大きさにとまどったことであろう。
 +その彼が、第一に手をつけたのが、宮中に於ける風紀の粛正であったという。
 +当時の宮中では、公卿と女官たちとの仲がルーズになっていたと言う。しかし、それももとはと言えば、前将軍の義持が、宮中に入りびたって、女官と関係したりして、男女関係をルーズにする手本を示した結果だともいわれている。
 +義教は、将軍宣下を受けた永享元年(一四二九)の翌年五月に、宮中に対して、
 +一、宿直の女官と、近侍の公卿とは、席を混合してはならない。
 +二、女官が、男子に対して面接する必要の時には、壁を隔てて申すべし。
 +と厳達し、ちょっとでも嘩の立った公卿達を厳罰に処したという。
 +当時のことを詳しく記録した『後鑑』の、永享六年六月十二日の頃に、
 +「凡そ左相府(義教)政務以来、所録を収公し、また籠居を命ぜられる者、七十余人に及ぶ」とある。
 +その内訳は、公卿五十八人、僧侶十三人、女官四人、計七十五人が処罰されている。
 +東坊城益長は、儀式中に失笑したとのことで、所領ニケ所とり上げ、閉門を命ぜられた。また、侍女小納言局は、申次の誤りで、髪を切られ、寺へ入れられてしまったと言う。
 +それだけ、他人に対し厳しかった義教自身の女性関係はどうであったかというと、正室の(日野)尹子の外に、九人の側室があったという。
 +関白殿息女・衛門亮殿・小宰相殿・洞院殿息女・北向様・小弁殿・左京太夫殿・日野鳥丸殿・尹子の妹日野重子の九人である。
 +本人は、こんな事は、将軍の特権であって他人から非難されることでないと己惚れていたようであるが、不満を抱く人が多くあったことは、想像に難くない。
 +果たせるかな、永享六年六月九日の夜、日野中納言の邸宅に賊が忍び入り、正室勢子、側室重子の兄、義資を殺して、首を切った者があった。
 +えてして、他人を責めることに急な者ほど自分に甘いと害われるが、義教などは、その典型と言わねばなららない。
 +
 +***2、遊び好きの、美食好き。 [#fa4d3667]
 +公卿や家臣、弱い侍女などまで叱りとばし重い罰など加えながら、将軍は何をしていたかと言うと、毎日のように、寺院や部将宅に出向いて接待を受けていた。
 +試みに、『後鑑』の永享十一年六月の項をのぞいてみると、
 +二日  景徳寺
 +三日  等持寺
 +六日  相国寺
 +七日  乾徳院
 +八日  天龍寺
 +九日  鹿王院、三宝院
 +十一日 瑞雲院
 +十二日 西芳寺、赤松満祐亭
 +十三日 鹿苑院
 +十四日 靈鷲寺
 +十五日 正持庵
 +十七日 小松谷
 +十八日 清水寺
 +十九日 保安寺
 +二十日 靈松院
 +二十一日 春熈軒、山名持豊亭
 +二十三日 竜雲寺.赤松満祐亭
 +二十四日 鹿苑寺
 +二十五日 金剛院
 +二十六日 泉涌寺
 +二十七日 長福寺
 +二十八日 雲居庵
 +二十九日 細川持之亭
 +三十日 北野宮寺
 +「将軍諭成り」とあれば、寺院でも、部将亭でも、精いっぱいもてなしたにちがいない。毎田が遊楽三昧、これでは、本職としての将軍政務はどうなっていたのか。あきれざるを得ない。しかも、不思議なのは、今月二回までも、赤松満祐亭に出向いていることである。
 +
 +***3、目ざわりの者には強圧 [#lc836bd4]
 +将軍義教にとって、最初に目ざわりになったのは、関東管領足利持氏であった。
 +関東管領と言うのは、足利尊氏が、長子義詮を二代将軍とすると共に、次子基氏を鎌倉に置いて、関八州を統括させたのが始めで、後には、奥州をも併せ統治させたもので、相当有力なものである。
 +その基氏から四代目が持氏である。義持将軍が死んで、後嗣がない事がわかっているので、持氏は、東都に上って将軍になるべく、内々運動もしていたのであるが、彼が軽率な人間であることを知っていた畠山満家は、これをしりぞけ、クジビキで将軍をきめてしまった。
 +不満やる方ない持氏は、「還俗将軍何する者ぞ」と軽く見、幕府の命令に対しても、しばしば反抗の態度を示した。
 +このような持氏に対して、義教は、将軍の威光を見せてやろうと、永享四年九月に、富士山見物へと駿河国に出かけて行った。供奉の軍勢六千余騎、昔、源頼朝が催した、富士の裾野の巻狩にも優るものであった。
 +持氏の方も、あくまでも強気で、出迎えもしなければ、一行に加わろうともしなかった。
 +こんな持氏に対して、執事の上杉憲実は、いろいろ諌めていたが、持氏は聞こうとしない。だんだん二人の仲は気まずくなり、遂に永享十年八月、決裂して、憲実は、領国上野国白井に走った。一方持氏は、憲実討伐の軍を起こした。
 +憲実は、将軍に対して、救援方を懇請した。
 +将軍義教は、時こそ来たれと、関東、奥羽の諸将に、持氏追討の令を下した。
 +持氏は、幕府の軍に攻められて敗れ、捕われて、鎌倉の永安に押しこめられた。執事の上杉憲実が、助命の歎願をしたけれども聴き入れられず、永享十一年二月十日、自害して果てた。四十二才であった。
 +持氏には、安王丸、春王丸、永寿丸と三人の子があった。持氏の残党が、この三人を奉じて、下総国結城の結城氏朝を頼り、関八州の豪族に呼びかけて、反旗をひるがえした。
 +幕府は、すでに隠退して、伊豆の寺に入っていた上杉憲実を口説き落して総大将として結城の城を攻めさせ、城遂に落ち、氏朝ら皆戦死し、安王丸ら三人は捕えられ、永享十三年(改元して嘉吉元年)五月十六日美濃国垂井で斬られた。安王丸十三才、春王丸十一才そして六才の永寿丸は、おくれて処分される筈のものが、六月二十四日、義教の死によって命助かり、後に古河公方足利成氏となった。
 +
 +次に目ざわりになったのは、弟の大覚寺門跡義昭であった。もともとこの人は、「性慈仁にして、大慶量の人物」と評されたことのある人であったが、クジに外れ、異母兄の義教が将軍になったのを見ると、やっぱり不満な心がくすぶり始め、永享九年七月、寺を出、
 +京都も捨て、大和国の越智維通を頼り反旗をひるがえした。
 +義教は、四職の一人、一色義貫とその兄土岐持頼に討伐を命じた。反乱軍は京軍に敗れ越智は斬られ、義昭は九州へ逃れて島津氏を頼ったが、義教の憎しみは強く、島津忠国に命じて斬らせた。嘉吉元年三月十三日、義昭は、三十七才、短い生涯の幕を閉じた。
 +次に義教によって理不尽に殺されたのは、一色義貫・土岐持頼兄弟である。この兄弟が大和へ討伐に出かけている留守中に、義貫の夫人が美人なので、義教が殿中に召したところ、夫人はカゴの中で自刃してしまった。これが知れると都合が悪いので、刺客を向けて、軍中で、兄弟を殺してしまった、(巷間では、義教は、一色義貫夫妻や土岐持頼の幽霊がつきまとって苦しめられていたと噂されていたと『応仁略記』にある。)
 +
 +***4、えこひいき [#t71723f2]
 +権力の座にある人の評価は、もちろん、本人の力量によって評価されるのが、第一義であるが、側近の善悪によって、相当左右されるものである。一般的に、阿諛談迎合する者が愛せられ、直諌する者はしりぞけられる事が多いものである。
 +将軍義教も、その例に洩れず、彼に愛せられた者は、美男子で、おべっかの上手な者たちであった。
 +代表的な者は、一色五郎に赤松貞村である。
 +一色五郎教親は、伯父に当る一色義貫が.将軍に殺された後、その所領をたくさん貰った男であるし、赤松貞村も、永享十二年の三月に、一族の赤松伊予守義雅(満祐の弟)の所領を、将軍がとり上げて彼に与えたものである。義教将軍が、赤松満祐邸に赴いた時ももちろん随従して行って屠り、将軍が殺される時、二人ともいち早く逃げ出している。
 +
 +**三、赤松満祐と言う人物。 [#ce93e7fd]
 +法雲寺([[法雲寺 (上郡町):http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E9%9B%B2%E5%AF%BA_(%E4%B8%8A%E9%83%A1%E7%94%BA)]])蔵の赤松大系図によると、赤松光範の第五子であったが、義則に養われて、その職をついで、左京太夫、大膳太夫、播磨・備前・美作三国の守護職を兼ねた実力者である。
 +応永十八年~二十年にかけては、幕府の重職である侍所頭人になっている。関東管領持氏叛乱の時なども戦功を建てている。しかし、将軍からは、毛嫌いされるところがあったものと見えて、応永三十四年(一四二七)将軍義持が、満祐の所領三国を奪って、一族の持貞に与えようとしたことがあった。怒った満祐は、自邸に火をつけて、播磨に帰ってしまった。義持は、細川持元・山名満熈をやって討たせようとしたが、諸将が、持貞の驕奢無礼であることを将軍に訴えたので、かえって持貞が自殺したので、満祐は許され、これを機会に剃髪して、性具入道と称して京都に帰った。
 +その後も、正長元年~永享四年まで、侍所頭人に再任、更に永享八年~十年頃に三任、幕府の枢要の地位にあった。ところが、将軍とはどうもウマが合わず、義教は、持貞の兄満貞の子貞村を偏愛して、又々所領を奪われるかも知れない機運を察して、機先を制して、将軍殺害の挙に出たのであった。
 +
 +**結び [#h6ec09a5]
 +はじめにも書きましたように、義教と満祐の関係は、相性が悪くて“嘉吉の乱”という劇を演じたわけであるが、人間的には、満祐の方が、きまじめで、幕府を支える人材であったのに、偏質性格の将軍のために、窮地に追いつめられ、“窮鼠が猫を咬”んだわけであったと思う。
 +*歴史は生きている [#x9cac0e3]
 +○過去があって現代があり、そして未来へとつづく
 +○山名・赤松両氏関係の概略を平易に書いてみた
 +RIGHT:(竹田)田中一郎
 +#clear
 +
 +**目次 [#v889c938]
 +一、始めにひとこと
 +二、町民に歌われ続けている山名・赤松氏
 +○地元小学校歌 ○運動唱歌
 +○利田山町民歌 ○和田山町音頭
 +三、歴史に生きる竹田小学校「城跡の庭」
 +○生き続けている歴史-写真資料
 +四、山名氏と但馬と竹田-そのあらまし
 +○山名氏の出自
 +○山名氏の基礎固めをした時氏
 +○山名氏系図(史料)
 +○山名氏の本拠此隅山城 ○生野町大明寺
 +○月庵に心酔した時義と時熈 ○月庵と老狼
 +○明徳の乱 ○豊岡市史「こぼれ話」
 +○嘉吉の乱-山名・赤松両氏の争い
 +五、応仁の乱と山名氏
 +○夜久野が原の合戦と「内藤塚」
 +○人間としての山名宗全
 +六、赤松広秀の民政と史跡竹田城址
 +○城跡をどう見るか
 +○山名・赤松両軍の供養塔建立
 +○赤松広秀と藤原惺窩「広秀を悼む和歌三十首」
 +○「看羊録」と「姜沆(原本はニスイ)」のこと
 +○広秀の民政
 +七、山名・赤松両氏結縁の町づくり
 +-観点を変えて考える。
 +○終わりのことば
 +  参考文献
 +○兵庫県史 ○但馬史(石田松蔵著)。豊岡市史
 +○看羊録(姜沆) ○赤松を悼む歌三十首(藤原惧惺窩)
 +○城郭大系(新人物往来社)
 +○和田山町の歴史 ○朝日・日本の歴史
 +○生野町史
 +
 +**はじめに [#v7cc5ce3]
 +山名・赤松両氏の交渉に関する事象をテーマにして書いてほしい。それは両軍戦没諸霊供養塔の開眼供養として小冊子を作りたいから--と、顕彰会からご依頼を受けたのが一月下旬であった。
 +三月末日までにまとめて下さいとある。
 +二か月あるとは言うものの年度末のこと故何かとせわしい。もちろんその実力もない。困ったことだと思ううちにも時間は流れていく。どうしょうかといらいらしていたある日、ふとこんなことに思い当った。
 +山名・赤松両氏抗争のくわしいことは、その道専門の学者におまかせしょう。幸いにも山名・赤松両氏に深い関係のある「史跡・竹田城址」のふもとに住んでいるわたし。「城と住民」との生きざまは毎日自分の眼で見ているし、わたしもその住民の一人ではないか。そのことを書こう。
 +そして、山名・赤松両氏の流れを汲む方がたに、一人でも多く知っていただこう。住民の血や肉の中には廃城となって四百年経た今日に至っても、脈々として生きつづけている山名・赤松両氏の願いを分っていただくことにしょうと、思い定めたのであった。
 +読み返してみると、すべてにわたって不十分であり不行届きであって忸怩たる思いでいっぱい。
 +でも、小学校教育にもとり入れられ、町民歌として町民合唱の場にもうたわれている事実を知っていただくだけでもうれしい。
 +両軍戦没諸霊の安らかに鎮まりまさんことを祈りつつ、執筆の動機を申し述べ、始めのひとこととしたい。
 +(平成二年三月)
 +**町民に歌われ続けている山名・赤松氏 [#r17410a2]
 +山名・赤松両氏は今も町民に歌われつづけている。
 +|竹田行進歌詞|竹田小学校譜面|h
 +|&ref(竹田校行進歌.jpg,mw:320);|&ref(竹田小学校校歌.jpg,mw:320);|
 +
 +竹田小学校校歌の一番には「虎臥山に年ふりて、その名も高き赤松の」とあり、戦前の卒業生には一入なつかしい竹田校行進歌の六番に「古城落日夕陽の--山名の雄図今いづこ、虎臥城下涙あり」と歌われつづけている。
 +-町民歌と竹田城跡
 +|&ref(和田山町民歌.jpg);|&ref(和田山音頭.jpg);|
 +町の公式行事の時に合唱する町民歌。その一番には「古城さやかに吹く風も歴史を語るふるさとは」とある。ここにも山名・赤松は生きている。
 +-町音頭と城跡
 +夏の祭りを始め色いろな催しごとに際して、歌っておどって幅広く普及しているのがこの和田山音頭。出だしの歌詞が「虎臥城に春風吹けば」である。
 +
 +**歴史に生きる「竹田小学校城跡の庭」 [#m0e11301]
 +RIGHT:竹田小学校長 下村登
 +#clear
 +本校では三年がかりで、城跡のある古城山と学校とを結ぶ「城跡登山路」を造成し、平成元年秋には十三ケ月を要して全国でただ一つの「竹田城跡の庭」(縮尺二十五分の二)を竣工させました。この城跡は「山名・赤松両氏ゆかりの史跡」であり、ふるさとを愛しその歴史と文化に親しむ心を育てるために、地教委の助言もあり、子と親と教師による汗の「教育づくり」として取り組んだものであります。縄張りのすばらしさを示す城跡の石垣は、全児童が川原で集めた栗石でしっかりと支えられ、「南千畳」の一角には一人ひとりの「二十一世紀へのメッセージ」を収めたカプセルが、大切に納められています。
 +「二十一世紀の成人の日に、ぼくたちは必ず地球の各地からこの庭に集まって来ます」
 +「城跡の庭」は、ふるさとを愛する心の出発点であり、母校を巣立つ子らの心のふるさととして、永く雄々しく本校の庭にたたずまいつづけることでしょう。
 +
 +***生きつづけている歴史 [#hd35c5f7]
 +-竹田城址の場合
 +竹田小学校庭に作られた竹田城跡の模型、-子と親と教師との合作による。
 +|&ref(P15-1.jpg);|&ref(P15-2.jpg);|
 +廃城になってから約四〇〇年。今なお住民は当時のことを語り継ぎ言いつぎして、今日に至っている。
 +|&ref(P16-2.jpg);|
 +|東の丸から天守曲輪(くるわ)を望む|
 +
 +|&ref(P16-1.jpg);|&ref(P16-3.jpg);|
 +*山名氏と但馬と竹田 [#h977c117]
 +○そのあらましについて
 +
 +**山名氏の出自はどこか [#l62242bc]
 +
 +山名氏は、新田義重の長男・義範が「上野国(こうずけのくに)山名郷」に所領を与えられた時から始まり、南北朝動乱に乗じて足利尊氏に従って活躍した。(上野国は今の群馬県。上州ともいう。)
 +やがて時氏が力をのばして、丹波国守護となったのが一三四三年(康永二年)のことである。
 +
 +*** 山名氏の基礎を固めた山名時氏 [#xffc287b]
 +
 +|AROUND TRIGHT:|c
 +|CENTER:山名家の系図|h
 +|&ref(P18.JPG,mw:320);|
 +
 +丹波国守護となった山名時氏は、領国の拡大をねらって一三四四年(康永三年、豊岡市新田・神美にまた
 +がる三開山城を攻略する。後醍醐天皇の建武の新政から十年目になる。このころから、山名氏と但馬との結び付きが出来てきたと見てよいのではないか。
 +山名氏の家臣団となった最初の但馬の武士は八木氏であった。
 +八木氏の本拠地「八木郷」は古代交通路を考えるとき重要な地点である。
 +このころ時氏は「因幡・伯耆・丹波・丹後・美作」五か国の守護をしていた。その一つ伯耆国と京都を結ぶ道が山陰道である。
 +但馬の山陰道筋の国人層を手に入れていたのが八木氏であり、山名時氏が、但馬において足がかりとしたのは、養父・朝来両郡であったと言える。
 +ここは、「日下部氏」が栄えた地である。養父郡の日下部氏の流れの中で、朝倉氏は越前国で栄える。養父郡では、八木氏がぬきん出る。
 +朝来郡の日下部氏の流れの中では「太田垣氏」がぬきん出て、両者は後に「山名四天王」の中に数えられた。
 +朝来・養父の両郷は京都への進攻路に当っているので、但馬を握る拠点となることはいうまでもない。
 +この地の国人を握ることに苦心した時氏の眼識は高かった。
 +山名時氏は、一三六八年(応安元年)家督を総領の師義にゆずった。
 +師義の代に入って、一三七二年(応安五年)山名氏は但馬守護となった。
 +#clear
 +
 +***山名氏の本城・此隅山城(出石町宮内) [#a56f9f83]
 +時義は出石町宮内の地に此隅城を築城した。此隅山は標高一四〇メートルで決して高い山ではない。が、出石、豊岡地方を眼下に見下す絶好の要地である。
 +城の西方には、日本書紀に書かれている古代但馬を開発したという「新羅の皇子・天日槍」を祭神とする但馬一の宮「出石神社」があり、豊臣秀吉が但馬征伐を行なうまで、山名氏の但馬支配の拠点であった。
 +特に山名時義の系譜が嫡流を名のり「但馬山名」として勢威を誇るのであるから此隅山城は「但馬支配の中核の城」とも言えるし、時義一族は山名総本家の地位を動かないものにした。
 +但馬山名初代の時義は、晩年をほとんど但馬で暮らし上洛しなかった。
 +但馬で病没したのが、一三八九年(康平元年)四十四歳の若さであった。
 +竹野町の円通寺に葬られている。
 +
 +|&ref(|但馬一の宮「出石神社」日本書記にあるように、新羅皇子「天日槍(あめのひぼこ)」を祭神とする但馬国一の宮。山名氏の信仰も厚く、戦時に際しては「此隅山城」と結んで接点となっていた。|
 +|&ref(
 +**時義と月庵 [#d0a82dab]
 +-生野町・大明寺の座禅石
 +時義とその子「時熈(ときひろ)」は「月庸宗光」に心酔していた。
 +月庵が開基したという寺は但馬に三か寺ある。生野町黒川の「大明寺」山東町早田の「大同寺」竹野町須谷の「円通寺」である。
 +|&ref(|大明寺の本堂・庫裏など、有名な座禅石は手前中央に見えている。|
 +|&ref(|座禅石|
 +
 +黒川は、先年関西電力の多々良木揚水発電の上部池ダムが構築されてから、一躍多くの人びとが出入するようになり、あわただしい趣きも見られるようになったが、「幽邃」さながらの土地であり、今もその自然は残っていて十分に当時をうかがうことが出来る。
 +大明寺には実に明朗闊達な住職がいらっしゃって、寺の歴史について興深く語って下さる。わけても「月庵坐禅石」の話がおもしろい。それは、月庵が座禅を組んで瞑想三昧、ひたすら求道の行をなさっているところへ、老いた狼がやってくる。よくよく見るとのどに骨を立てて苦しんでいる。老師が骨を除いてやられると老いた狼は大よろこび。
 +老師、狼に申されていわく。「今後はこの人里近くに出没して住民を恐れさせてはならないぞ。早く去れ」と。老いた狼は再びこの近くに来ることはなかったという。
 +
 +座禅石は、当時をもの語るかのように、今も庭前に昔の姿そのまま嘱、残っている。(写真を参照されたい)
 +
 +(補記)
 +月庵和尚が座して悟りの道を求めたという座禅石は、もとあったところが関西電力揚水発電のダム築堤工事地となったため、写真のように、現在は開山堂の横に移して安置されている。
 +**明徳の乱 [#sffe663e]
 +-お家の事情というもの
 +山名家の本流である「師義」の家の後見役に時義がなった。これは師義の直系の子「満幸」や、時義の兄である「氏清」にとって、心おだやかでないものがあった。
 +一方将軍足利義満は、かねてから守護大名が強大になることを恐れ、その勢力の増大しないよう考えていた。
 +山名時義の死後を受けて二十三歳の嫡子,「時熈」が山名宗家を継いで但馬守護となり、弟の「氏幸」が伯耆の守護となったが、それに不平不満を持っていた一族の山名満幸・氏幸らとの内紛を利用して、将軍義満は、「一族同志の争い」にうまく持ちこんだのである。
 +一三九一年(明徳二年)のことで、世にいう「明徳の乱」である。氏清は討たれた。
 +結果的には山名時熈がわの勝利とはなったが、一族が相争ったため、時義の時代には、十一か国を占め「六分一殿」(ろくぶのいちどの)と言われていた強大な山名の勢力も落ち目となった。
 +ここにおいて、将軍義満の考えた山名同族を戦わせて勢力を削減し、終局的には「足利を固める」という作戦は、ある程度成功したといえよう。
 +
 +
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 +#navi(寺報・書籍/山名赤松研究ノート)


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