2: 2008-05-27 (Tue) 15:35:52 admin source 3: 2008-06-02 (Mon) 23:21:54 admin source
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*「報恩寺(ほうおんじ)建立」 [#l751d405] *「報恩寺(ほうおんじ)建立」 [#l751d405]
#ref(http://www.houun.jp/uploads/photos/215.jpg,mw:240,right,around,報恩寺?) #ref(http://www.houun.jp/uploads/photos/215.jpg,mw:240,right,around,報恩寺?)
-法雲寺のある現在の村岡周辺は南北朝の昔より七美(ひつみ)の庄と呼ばれており、庄内のほとんどは花園・妙心寺(臨済宗)第二世授翁宗弼(じゅおうそうひつ)の荘園でありました。宗弼は俗名を藤原藤房と言い、後醍醐天皇の側近で建武の中興の一番の功労者でありました。その宗弼が永和元年(1375)、齢・八十歳の時に当地・七美庄に自ら発願され「報恩寺」(ほうおんじ)を建立し、父母や先祖の菩提を供養すると共に、荘園の管理に当らせておりました。その後、宗弼は諸国行脚の旅に出掛け三河の国で八十五歳で亡くなりました。南北朝から室町へと時代が進むにつれ、荘園の形態も弱体化し、報恩寺の荘園を管理する役目は終わり、土地の為政者の祖先供養が重要な役割となり ました。+法雲寺のある現在の村岡周辺は南北朝の昔より七美(ひつみ)の庄と呼ばれており、庄内のほとんどは花園・妙心寺(臨済宗)第二世授翁宗弼(じゅおうそうひつ)の荘園でありました。宗弼は俗名を藤原藤房と言い、後醍醐天皇の側近で建武の中興の一番の功労者でありました。その宗弼が永和元年(1375)、齢・八十歳の時に当地・七美庄に自ら発願され「[[報恩寺]]」(ほうおんじ)を建立し、父母や先祖の菩提を供養すると共に、荘園の管理に当らせておりました。その後、宗弼は諸国行脚の旅に出掛け三河の国で八十五歳で亡くなりました。南北朝から室町へと時代が進むにつれ、荘園の形態も弱体化し、報恩寺の荘園を管理する役目は終わり、土地の為政者の祖先供養が重要な役割となり ました。
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*矩豊公の入部 [#m79876db] *矩豊公の入部 [#m79876db]
-しかし、元禄年間になり、村岡山名代三代矩豊公が藩地に入部され、初めて大名としての行政を行われました。その第一が藩都を現在の村岡の地に移され、村の名前も「黒野村」から「村岡村」へと改められ、新たな城下町造りに励まれました。その時、黒野村にあった寺院が「報恩寺」で、矩豊公は報恩寺を山名氏歴代の菩提寺と定め、鎌倉時代以来の宝牌を納めて名門山名宗家としての祭祀を尽くされました。+しかし、寛永年間(19年・1642年)になり、村岡山名代三代矩豊公が藩地に入部され、初めて大名としての行政を行われました。(寛永19年「参勤交代」の制度化とも関連ありか?) 
 +その第一が藩都を現在の村岡の地に移され、村の名前も「黒野村」から「村岡村」へと改められ、新たな城下町造りに励まれました。その時、黒野村にあった寺院が「報恩寺」で、矩豊公は報恩寺を山名氏歴代の菩提寺と定め、鎌倉時代以来の宝牌を納めて名門山名宗家としての祭祀を尽くされました。 
*「ほうおんじ」(報恩寺)から「ほううんじ」(法雲寺)へ [#l97f3ef1] *「ほうおんじ」(報恩寺)から「ほううんじ」(法雲寺)へ [#l97f3ef1]


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