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満時は数え年十八歳で室町幕府の重職侍所頭人および山城守護の任を果さなければならなかった。うしろだてとしては父山名常熈があるものの、ここにも父常熈の満時に対する期待の大きかったことがうかがわれる。 満時は数え年十八歳で室町幕府の重職侍所頭人および山城守護の任を果さなければならなかった。うしろだてとしては父山名常熈があるものの、ここにも父常熈の満時に対する期待の大きかったことがうかがわれる。
 +|=&ref(P22_1.JPG,mw:320,mh:320);|
 +|=①侍所頭人山名満時書下(『古文書研究』第別号所収-東寺文書-)|
 +
 +| |=伊豫守|
 +|=&ref(P22_2.JPG,mw:320,mh:320);|=&ref(P22_3.JPG,mw:320,mh:320);|
 +|=②侍所頭人山名満時書下封紙宛書(『古文書研究』第別号所収「京都府立総合資料館所蔵」-「封紙の重要性」-上島有)|=③侍所頭人山名満時禁制(『大日本資料』第七編之二十四所収「湖山集」保阪潤治氏所蔵)|
 +写真の①と②は応永二十一年六月二十七日当時の「宮内少輔」が「満時」であることを証明する。この満時が山名満時であることは一で前述している。
 +
 +山名満時の官途については応永二十一年三月十二日当時、「宮内少輔」であったことは確かであるが、同年六月二十七日、朝廷および将軍義持の命をうけて、東寺に諸課役を免除し、それを土屋越前守熈忠(所司代・山城守護代)に遵行を命じている事績は、宮内少輔満時の侍所頭人としての役割を実証している。
 +
 +満時は応永二十三年四月には伊豫守として近江山上永源寺含空院領伊勢国久米守忠名の山河に殺生禁止の禁制を公布している。満時は中央官の宮内少輔と地方官(受領)としての伊豫守を帯していることがわかる。
 +『大日本史料』第七編之二十四、応永二十三年四月三日条の禁制は「伊豫守」と[花押」を記して、その実名をあげていないが(写真③)、この花押は写真①の花押と同一である。したがって、この伊豫守の実名は満時であることが判明する。
 +
 + 山上永源寺含空院領伊勢国久米守忠名
 +は将軍義持が「守護使不入之地」として含空院に安堵したもので、義持はその保全を山城守護の山名伊豫守満時に命じ、満時はその命令をうけて禁制を公布していることがわかる。
 +
 +満時が伊豫守を帯していたことがわかると、『看聞日記』応永二十四年正月二十三日条の次の記事の理解が従来より深まる。
 + 聞、山名右衛門佐入道屋形室町殿詔(招)請申、快然之餘内々へ入御、室嫁二御對面、仍御引出物如山進之、此勸賞子息伊典守刑部大輔二被任、金吾入道右衛門督二可被申成云々、希代事歟、
 +つまり常熈の子息伊豫守は将軍義持によって刑部大輔に
 +昇進し、父の金吾入道常熈も右衛門督に昇進していることがわかる。この伊豫守は従来その実名が不明であったが本稿で山名常熈の嫡子であり侍所頭人であった山名満時であることが立証できた。
 +しかし『康富記」では同年の応永二十四年九月二十五日条に
 +「同今日室町殿山名金吾禅門許御成云々、同子息刑部少輔満時亭同御成、大御酒云々」
 +とし満時の官位を刑部少輔としている。満時は刑部少輔から宮内少輔、ついで刑部大輔へと転じたと考えられる。
 +満時の極官は修理大夫であった。このことは前述した「康富記」の応永二十七年閏正月二十二日条の
 +「今曉修理大夫満時被卒」
 +とあることにより確認できる。
 +満時が刑部少輔に任官したのは『歴名土代』に
 +「応永二十年六月十一日、従五位下刑部少輔」
 +とあるのがそれと考えられる。
 +*三、満時の歴史的意義 [#kfb94870]
 +室町幕府の大守護でありまた四職家の山名常熈の嫡子として生れた満時は二十五歳にして早世したため常熈の跡を
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