4: 2009-10-13 (火) 19:13:38 admin ソース 現: 2010-02-21 (日) 11:58:42 admin ソース
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**文化人大名山名時熈 [#b2642138] **文化人大名山名時熈 [#b2642138]
 +時無は応永四年(一三九七)に北山殿道義(足利義満)の春日社参に供奉して奈良に至るが、このおり法隆寺近くの聖徳太子達磨大師対問伝説として知られる片岡山を訪ね(月庵和尚から垂示されていた)、達磨寺の廃墟を探ってこれの復興を志した。
 +大和は南都七大寺などの栄える旧仏教の王国、新仏教の進出は許さない。
 +鎌倉末期、禪宗達磨寺が創建されたが、興福寺六方衆徒が断罪破却してしまった。今や室町将軍家と重臣山名時熈の威光で達磨寺が復興される。
 +しかし、復興成就は永享元年(一四二九)のことであり、供養導師に下向した禪匠の惟肖得巌も、神国大和の禪宗排撃を慨嘆している。ちなみに、時熈は嫡子満時の夭折を悼んで南禪寺に栖眞院を興した。なお院内に書斎栖眞軒を設け、ここで惟肖和尚らと詩文の会を楽しんでいる。時無は郷国においても禪院の振興をはかった。
 +すでに先代の時氏も時義も、将軍家にならって禪院の創建に努めている。
 +但馬守護の時義は、先代の貞治六年(一三六七)に但馬黒川に大明寺(生野町)を開いた月庵宗光に深く帰依した。
 +時義は円通寺殿と諡せられ、竹野の円通寺に葬られたが、同寺も月庵和尚が開山である。
 +さて時熈は幼にして和尚に参叩した。しばらくで和尚は寂したが、大出世した時熈はなおも和尚を慕い、墓所を大明寺に定めていた。大明寺殿と諡せられる。なお、早田の大同寺(山東町)を祖父時氏の菩提所とし、これも和尚に献じている。
 +
 +なお、時熈の禪院振興の一つとして特記すべきは楞嚴寺の拡充である。
 +同寺は権中納言平宗經家の出身で禪僧となった南溟昌運が延文五年(一三六〇)に創建住持した。
 +これに從三位楊梅親行が因幡服部庄領家職を寄進、但馬久斗庄とともに同寺の根本寺領となっている。同じく円通寺領因幡津井郷も知られ、西但と東因との交通を考えるうえでも興味深い。
 +ところで時艱は楞嚴寺の環境を愛好した。公卿出身の南溟和尚や勧請開山夢窓国師の遺風に共感したといえそうである。時熈は本寺を保護、因幡服部庄の歴代将軍の安堵などは率先これを申請、因幡山名氏に遵行を命じているし、但馬二方庄公文職を寄進している。むしろ菩提寺の感もある。なお、時熈が但馬に建立あるいは拡充した禪院は宗鏡寺など数多い。
 +
 +ところで、時熈は禪院のみならず、社寺の崇信も厚く、一宮出石社や妙見山日光院などの保護に努める。
 +禪宗は新渡来文化だし、官仏教だったから摂取に努めたため、とくにきわ立ったといえる。当代、和漢兼帯の教養ないし文化が称揚される。和漢兼帯の文化人としては夢窓国師が先達、その記念物は西芳寺(通称苔寺、花御所や東山山荘はこれを模している)だが、時熈は楞嚴寺に苔寺の風光をも偲んだことかもしれない。
 +
 +なお、将軍家や大小名らの社交に連歌会や茶会が盛んになった。ともに和漢兼帯の教養が求められるが、とくに和漢兼帯文化の茶会は連歌師が主宰した。連歌師とともに茶湯者が宗匠といわれるが、茶湯はもと連歌師のワキ芸だったのである。
 +遊吟の連歌師の草分けとして高山宗砌(そうぜい)が有名だが、もと時熈の家臣だといわれる。
 +時熈は屈指の大名歌人である。なお、時熈は茶数寄(茶器愛玩)を好んだ。自らを卑下して「茶喰(くら)い」と称したという(『正徹物語』)。
 +茶湯は和漢文化兼帯の東山文化の華として発祥するが、その胎動期に愛好者として時熈の名が知られるのが注目される。
 +時熈は文武兼帯の将といわれる。とくに文化人大名というにふさわしい。上洛の家臣らも主人の時熈の遊楽に陪する。京都往来の家臣らが中央文化を伝播する。禪院なども新文化を伝播したのである。
 +**山名宗全の驍勇 [#p005515f]
 +持豊(一四〇四~七三)が亡父の遺領を独占したことにたいし、備後に潜んでいた兄の持熈が反乱したが、問もなく鎭圧された。山名一族が持豊に從順している。当時、将軍義教は諸大名制圧戦を続行、これに持豊が重用された。
 +
 +義教は武断政治の報いで嘉吉元年(一四四一)六月に赤松満祐の凶刃に倒れる。赤松邸御成りに供奉した侍所所司の持豊は面目を失するし、石見守護の熈貴が血祭りにあがった。播磨下国の満祐追討に持豊はいち早く進撃した。
 +八月末に但馬から播州に入り九月十日に満祐を討伐した。論功行賞として持豊に播磨・石見守護、教清(義理の孫)に美作守護、教之(氏清の孫)に備前守護が授与された。
 +反満祐の赤松満政に将軍家料所の東播磨三郡、征伐軍大将の細川持賢に摂津中島郡が与えられたに過ぎないのだから、持豊が戦功随一、赤松氏遺領は山名一族で握ったことになる。
 +山名持豊一族の領国は十方国に達する。この嘉吉の乱から管領家の細川・畠山両氏の指導権爭いが始まった。管領細川持之にたいし、将軍義教から処罸隠居させられた畠山持国が同様な隠居大名を糾合して細川持之の退陣を要求したことに始まる。諸国に新旧二人の守護大名が出現、被官らが対立抗爭するのである。
 +なお、斯波氏は守護代らの下剋上で勢力失墜、細川・畠山両氏が諸国大名両分の党爭を展開するのだから管領政治は半身付随となり、幼主義政を擁する側近勢力の貴族政治が展開する。細川畠山の抗爭はかれらには好ましい。それをむしろ煽り、漁夫の利をはかった。
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 +山名持豊は念願の播磨に進出、山陽道も抑えることとなった。赤松氏を喪った細川氏は毒は毒を以て制するの譬えだが、持豊の女を勝元の妻に迎えた。なお、持豊が畠山氏に味方するのを防いだのである。ちなみに、四職家では赤松氏が亡び、一色・京極両氏も衰退している。
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 +細川氏は将軍家権威の高揚のため、諸大名の制圧、おりから吉野奥地で旗あげした後南朝の討伐を期した。創業の名臣細川頼之の政策をしのんだものである。しかも、細川氏の独走をはかった。このため将軍家側近政治は是認している。
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 +持豊は勝元を女婿としたためこれに協力したが、細川氏の政治謀略や不信行爲にはしばしば泣かされた。享徳三年(一四五四)、畠山義就派と政長派との家督相続争いの洛中騒擾が始まったが、政長派の敗残兵が逃げこんだのが不運、将軍義政の怒りをかって処罸されることとなった。
 +相続爭いに細川氏が介入していたのは明かだが管領の勝元は処分されない。勝元は義父のため職を賭して義政を諌め、
 +但馬に隠居の処分でおさめた。勝元には美談だが宗全は不満である。
 +なお、細川氏には赤松氏残党の主家復興の嘆願に同情を寄せた者があり、後南朝が奪取している神璽(三種神器の一)の奪還を浪人らに課した。これも宗全にたいする不信行爲の一つである。このおり、勝元は宗全の息を養子に迎えている(後年の鄲林和尚)。
 +
 +細川氏の介入する畠山両家の抗爭は、河内・大和では合戦、帝都では政爭となった。細川勝元の管領政治は無力化、将軍家側近勢力の窓口となった政所執事伊勢貞親の擅権(せんけん)や寵嬖(ちょうへい)政治がふるった。
 +宗全は赦免を待たず上洛したが、やがて将軍家に出仕している。神璽奪還祝賀として恩赦されたらしい。しかし、神璽奪還によって赤松氏の播磨回復運動に燈火が点ぜられたため、宗全はいらだった。
 +嫡子の教豊を本国に追い下している。さきの宗全の処罸以来、一族に不協和音が発している。
 +
 +宗全には赤入道のニックネームが呈された。一休和尚もこれを詩句(『狂雲集』)でうたっている。さきに赤松満祐は三尺入道といわれた。宗全は青年時代から蠻勇を評され、侍所所司としてはむしろ暴政を称されている。宗全といい満祐といい、優雅を旨とする帝都生活にはなじめなかったらしい。
 +父の時熈とはちがい、直情徑行の性といえよう。宝徳二年(一四五〇)に南禪寺に眞乘院を開基、そして入道したのが特筆される。
 +
 +宗全は管領家と所司家(四職家)の格差にもようやく気づいたらしい。
 +大相撲の横綱と大関とは同格だが、栄誉に差があり、なお降格がない。それと同じい。
 +さきに細川勝元を婿にしたが、なお管領家を扼するため、斯波家の義廉・義敏の相続爭いに介入し義廉を援けた。義敏を推す伊勢貞親と衝突した。
 +貞親の執拗な謀略に耐えかねた宗全は、文正元年(一四六六)九月、ついに君側の奸を討つとして蹶起、貞親や藤原軒眞蘂西堂(いんりょうけんしんずいせいどう)らの武力追放を決行するにいたった。ちなみに、眞蘂西堂は赤松氏の一族であり、次郎法師丸(赤松政則)を喝食(かっしき)として養育していた。将軍家に政則の元服や一字拝領をも周旋している。
 +
 +貞親は宗全を振り切るため、将軍家家督を待ちわびる足利義視を斯波家騒動に結びつけ、宗全らを与党として家督を迫ると将軍義政に讒言した。
 +義視を細川勝元が後見しているが、すでに義政には実子の義尚(よしひさ)が生まれた。義政夫人日野富子には義尚を僧侶にするという義政・義視兄弟の協定は呑めないものだった。
 +
 +宗全の蹶起にたいし、貞親らが逃亡したため武力行使にはいたらなかった。このおり義視は出奔して勝元邸に入った。政局は大混乱した。宗全は将軍義政の処罸追討を覚悟した。しかし追討もない。勝元は義政と義視の和解を調略、義視を帰還させるのが精一杯だった。
 +勝元のロボット的管領の畠山政長など周章狼狽(ろうばい)するに過ぎない。
 +このおり、宗全は兵力増強のため、河内で善戦している畠山義就に着目、これの赦免上洛をはかるため、姉の安清尼を日野富子のもとに日参懇請させたが、富子からは義尚擁立を依頼されたといわれる(この所説はやや疑わしい)。
 +宗全は側近勢力の僧俗が大名の更迭などをさかんにするのを憤慨した。これの権限を持つ管領家の細川勝元は貴公子ぶり、側近勢力にむしろ迎合黙認、それも自家の独走に役立てている。
 +将軍家家督の義視の後見人でありながら、側近勢力を慮ってこれの実現に努力しない。宗全は義憤を発し、勝元に挑戦を決意したらしい。
 +しかし、勝元は義父の宗全に刃向うことはしない。そこで、宗全は勝元を登場させる謀略として、朝敵畠山義就を上洛させ、管領の政長と畠山氏惣領職を爭わせたといえる。
 +勝元が非力の政長を支援、戦場に出るのは必定と考えたのである。なお、義就を配下にすれば、三管領家制圧の念願も達せられる。畠山義就の上洛で政長が狼狽する。あるいは義就側からも日野富子あたりに赦免懇請がつづいたのかもしれない。不思議なことだが、政長らがこれを察知したようすはない。
 +
 +**応仁の乱 [#xa4263a9]
 +文正二年(一四六七)正月、元旦の儀式に管領政長は参仕したが、翌二日の管領邸御成りは中止された。同日、畠山義就が参仕した。やがて、管領に斯波義廉が補任せられ政長は罷免された。宗全は盟主に推されたが、管領に起用はなく、なお、義就の任用もない。むしろ三管領家輪番制の旧態依然たるものだった。革新にはほど遠い。将軍家御所は山名宗全らが扼し、なお義視も迎え入れたので、勝元は将軍家と遮断されてしまった。将軍義政は勝元の政長支援を問責、これと絶縁を命じた。やがて、義就と政長との決戦が許されるが、勝元は宗全が義就を援助しないことを条件にこの命令も呑んだ。
 +
 +正月十八日拂曉、上御靈の森に陣取った政長軍を義就軍が攻撃した。終日勝敗は決しない。しびれをきらして山名政豊(宗全の孫)や斯波義廉の部将朝倉孝景が義就軍に加わったため、政長軍は敗北潰走する。政長は勝元の支援をもとめて彼の邸宅近くに陣取ったし、再三援兵を請うたが勝元は動かない。
 +将軍家とつねに共にあることで細川氏は利を得た。将軍家と遮断された勝元は爲すすべもなかった。宗全らは快勝に酔った。宗全には往昔、細川頼之の謀略に敗れた明徳の
 +乱の仕返しができた喜びもある。急を聞いて上洛した諸国兵も国もとに帰らせている。
 +
 +これにたいし、細川一族は雪辱の期を狙った。赤松政則はふるさと播磨に下向、山名軍と戦っている。宗全を惱ます軍略ででもあろう。なお、与党の大名らには秘かに各邸宅の要塞化を命じた。立地条件が幸わいし、蹶起すれば将軍家包囲網となり、宗全党を将軍家から遮断できる見とおしである。宗全も風雲の急を感じて与党大名と軍議したが、兵力不足がつまづきの基だった。将軍義政や富子は宗全や斯波義廉に自重を命じたという。五月二十六日、細川党が宗全与党の攻撃を始めた。宗全配下の垣屋軍などが敗退している。合戦は焼掠戦である。緒戦一両日で上京諸所が焼かれた。利運の勝元は義政に宗全追討を要請するし、義視を将軍家に迎え入れた。すでに宗全の次男の是豊が勝元党に投ずるし、管領斯波義廉が降服を申入れたといわれる。宗全党は機先を制され、戦意もあがらない。六月、義視が将軍旗を授けられ、宗全追討の大将に任ぜられた。日野富子らが将軍旗親授を阻止するに努めたという。富子が宗全や義就に好意を寄せていたのがわかる。ここで宗全らは賊軍となるわけだが、不思議ながら官軍・賊軍といわれない。いつしか、東軍・西軍の称が生ずるのである。やがて西陣の地名が生じ、そこに陣取った宗全の名ものこる。
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 +月末に宗全軍八万が到来した。四万は丹波に残したともいわれるので、数万の兵数だったのはたしかだろう。西軍大将の面目が立ったといえる。これまで西軍は但馬を故郷とする越前の朝倉孝景の奮戦で支えられていた。斯波義廉が降参を申入れたとき、朝倉の首を持参せよといわれたという。勇者だったのがわかる。なお、八月に大内政弘の大軍が上洛する。これで西軍も退勢を挽回した。このおり、東軍が主上や上皇を室町第(将軍家御所)に奉迎している。すると義視が将軍家から出奔した。西軍の勝利を恐れたのである。両軍ともに動員の諸国大名軍が到来したことになり、そして街地戦が決行される。問もなく帝都は廃墟と化するのである。
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 +翌二年、出奔の義視が帰京するが、義尚擁立の伊勢貞親が参仕しているのに絶望、同年末に西軍に投じた。西軍は将軍家を東軍に擁せられている不利を脱し、天下分け目の合戦が挑めるわけだし、軍兵の動員には役立つのだが、西軍諸将間に賛否両論がきかれる。一方、義尚の家督が確定、日野富子が気負って義政としばしば衝突する。富子に親しんだ宗全や畠山義就などは降参も考えたらしい。
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 +両軍の合戦は一進一退、いわゆる泥沼合戦となった。補給などの問題もあるし、国もとにも東西両党合戦が波及した。とくに恩賞は望めず、消耗戦にすぎない現実を知ると、厭戦気分もつのってくる。大名軍の帰国もはじまる。しかし、新規に上洛軍があり、それでしばらく戦火もあがるというものだった。
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 +将軍義政が酒色に明け暮れ、禁裏は念仏生活だという識者の慨嘆も聞かれる。文明四年(一四七二)、老体で弱気となったか宗全は勝元に講和を申し入れた。勝元も気を動かしたが、赤松政則が播磨・美作・備前の領有を主張して譲らないのでご破算となった。宗全も勝元も面目を失なった。宗全は自刃をはかり、勝元は髻(もとどり)を切ったと伝えられる。そして宗全は家督を教豊の順養子としていた政豊に譲った。政豊は一時、東軍に降ったという噂もあった人物である。なお、教之が伯耆に下国、間もなく病死している。
 +
 +翌五年三月、前年の自刃の後遺症も作用してか宗全は病死した。西軍大将の名をあげた勇者としては淋しい死去といえるだろう。ところで、月余にして勝元が流行病で急死する。これまた不思議といえる。
 +
 +大将の共倒れで、両軍は解体すべきものだが、東軍の細川一族の団結は固く、諸将の動搖もない。西軍は大内政弘邸に諸将が会したという。政弘を大将として結束したものだろう。義視を将軍として戴いているのも幸いだった。東西両軍の対峙はつづく。実は、大内政弘は宗全にまさる活動を示していた。郷国からの海路補給路のほか、山名是豊を追却して山城を握り、兵站(へいたん)基地としたことも役立った。大和をはじめ近国からの補給路を握っている。
 +ちなみに、義視が将軍に奉戴されて以来、大将宗全の権威が動揺していたことは否めない。しかし、侍所所司の最長老であり、東軍ながら大将細川勝元の義父だというのが大将の座を確保せしめていたといえるだろう。
 +
 +**山名氏の余光 [#b83b5f99]
 +宗全の名跡を継いだ政豊は、山陽道における宿敵赤松氏の脅威に焦心した。同年、義尚(よしひさ)が成人して将軍に補せられた。後見の日野富子が女将軍と称せられるが、これが将軍家の存在をはっきりさせた。なお、将軍家の花御所が安泰、花御所は禁裏もかねた。このため、東軍に官軍色が輝いた。おりから、両軍対峙のさなかだが、難民の小屋がけに始まって町民の町づくりが進んできた。戦後復興景気も起こる。そこで戦爭怨嗟(えんさ)と平和願望が高まる。怨嗟は戦火メーカーたる大小名軍に集中する。花の帝都を田舎人に蹂躙されたという住民感情もこれに作用する。大小名らが下国を早める一因となったらしい。このおり両軍から棚上げされて武力放棄にも似た将軍家や公家の伝統的権威が仰がれる。西軍はいよいよ不利となる。
 +翌六年、講和機運が高まり、山名政豊がまず細川改元と講和した。但馬・備後を確保できた。なお、四職家が就任する例で山城守護にも任じられた。太田垣・垣屋らの老臣は同意したが、不満とする者もあったらしい。播磨などは旧主の赤松氏が狙っており、保持はむずかしい。ぜんじ、家臣らも講和を了承するが、家臣らの下剋上もつのってきたのがわかる。ともかく、この講和は但馬確保という点では賢明だったといえる。同九年に終戦となった。西軍大名の多くは帰国したが、政豊は在京した。結局、山名本家には但馬と備後が残り、他は喪失する。なお、因幡・伯耆が一族に残った。しかし、六分一大名・十か国大名の称は全く消えた。
 +
 +なお、山名氏としては播磨を領有したい。ところが、赤松政則が播磨・美作・備前を獲得、山名勢力の一掃をはかった。なお、政則は在京は避け、侍所には家臣の浦上則宗を所司代として在京せしめる。対抗上、政豊も下国を余儀なくされる。同十年九月に下国、以後はほぼ在国した。ちなみに、備後には次子俊豊を送りこんでいる。なお、翌十一年には因幡に出兵、山名豊氏・豊時を援けて国人森二郎の反乱を鎭定する。森二郎を政則が支援したといわれる。
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 +山名政豊はしばしば播磨に進撃した。敗北に終わるので、家臣らに異論も生じたが、文明十六年(一四八三)、赤松政則が浦上則宗に追放されたのに乘じて進撃、則宗を敗走させて赤松領国を收める戦果をあげた。間もなく、政則の反撃をこうむるが、長享二年(一四八八)に大敗、完全撤退にいたるまで坂本城などを維持していたのが注目される。しかし、この大敗の波紋は大きい。家臣らが政豊を廃して俊豊(長男)に代らせる謀略に遭い、一時は逃避する破目となった。俊豊らと反目することになるし、家臣らの下剋上や対立を制止する権威も失せる。このおり、但馬は戦国乱世に突入した感がある。
 +
 +政豊は晩年、俊豊と戦ってこれを敗死せしめた。三男の致豊が家督して但因両国守護となるが、内憂外患に遭遇した。以下は他稿にゆずる。
 +
 +山名氏は時氏・氏清・時熈および宗全の四代が相次いで名声をあげた。時氏は辺隅の百姓同然の出自だったが大出世したと述懐している。四代各人それぞれ出世街道を異にしたし、波瀾万丈の人生だったかもしれないが、福徳満足と評さるべきものであろう。三代目の時熈で名族山名氏の盛代がうたわれるが、西軍大将の栄名をあげた宗全の存在もこれを補強した。それぞれ持ち味に掬すべきものがある。この四代累積の栄光を負って山名氏は連綿したといえる。
 +*[付記] [#l9bf38c3]
 +#ref(P18-1.jpg,right,around,mh:320)
 +筆者は昭和43年に『応仁の乱』(日本歴史新書、至文堂発行)を著作、同50・53年に『兵庫県史第二・第三巻』の「南北朝~応仁の乱」を分担執筆した。なお、昭和34年に論文「織田信長の但馬経略と今井宗久-付、生野銀山の経営-」(関西学院史学第五号)を発表している。ちなみに、昭和29年から山本茂信氏とともに「但馬楞嚴寺・妙見山日光院文書」の校刊に当たった。その交誼から本稿を執筆呈上する。
 +栃木県佐野市生まれ、奈良市在住。
 +※参考書『兵庫県史』・『同中世史料編』石田松蔵『但馬史』小坂博之『山名常熈と禅刹』・『山名豊国』
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 +|=&ref(P18-2.jpg,mh:320);|=&ref(P18-3.jpg,mh:320);|
 +|=西陣碑|=京都市上京区堀川通上立売下ル山名町|
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