2: 2009-09-30 (水) 15:15:37 admin ソース 3: 2009-10-01 (木) 12:01:31 admin ソース
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王政復興の建武中興が破れ、南北朝動乱が始まった。足利尊氏の幕府開設に山名時氏(一三〇三~七一)は協力、建武四年(一三三七)伯耆守護に任ぜられ、山陰道の平定を命ぜられた。康永二年(一三四三)には丹波守護になるが、但馬の見開山城の新田義宗を攻め、南党の太田垣・八木・三宅・田結庄(たいのしょう)らを誘降している。但馬・因幡は南朝勢力の強いところだったのも一因、足利尊氏・直義兄弟の確執もからんで時氏は南朝に一時降参している。山陰道の確保をはかる時氏としては、但馬でその勢力路線が切断されているのを憂慮、完全掌握を期したのである。南朝からは丹波,但馬・因幡・美作・備中・備後などの守護に任ぜられ、貞治二年(一三六三)に二代将軍義詮のもとに帰参のさいは侍所頭人家(四職家)に列し丹波・丹後・因幡・伯耆,美作の五ケ国守護に補せられている。山陰道大将の重任を帯びていたのがわかる。応安四年(一三七一)、時氏は死没し、長男の丹後守護師義は病弱のため、四男の氏清(一三四四?~九一)が家督して丹波、次男義理は美作、三男氏冬が因幡、五男の時義が伯耆を治める。おりから、管領細川頼之の補佐で三代将軍義満の大名制圧が始まっていた。翌応安五年に氏清に丹後・出雲を追加、時義が但馬守護に任ぜられた。惣領の丹波守護氏清にではなく、弟で領国の接続しない時義(師義の養嗣子)にこれを与えた将軍家の遠謀深慮がうかがえる。なお、氏清に先んじて時義を侍所頭人(所司)に補する。氏清と対立する謂(いわ)れである。 王政復興の建武中興が破れ、南北朝動乱が始まった。足利尊氏の幕府開設に山名時氏(一三〇三~七一)は協力、建武四年(一三三七)伯耆守護に任ぜられ、山陰道の平定を命ぜられた。康永二年(一三四三)には丹波守護になるが、但馬の見開山城の新田義宗を攻め、南党の太田垣・八木・三宅・田結庄(たいのしょう)らを誘降している。但馬・因幡は南朝勢力の強いところだったのも一因、足利尊氏・直義兄弟の確執もからんで時氏は南朝に一時降参している。山陰道の確保をはかる時氏としては、但馬でその勢力路線が切断されているのを憂慮、完全掌握を期したのである。南朝からは丹波,但馬・因幡・美作・備中・備後などの守護に任ぜられ、貞治二年(一三六三)に二代将軍義詮のもとに帰参のさいは侍所頭人家(四職家)に列し丹波・丹後・因幡・伯耆,美作の五ケ国守護に補せられている。山陰道大将の重任を帯びていたのがわかる。応安四年(一三七一)、時氏は死没し、長男の丹後守護師義は病弱のため、四男の氏清(一三四四?~九一)が家督して丹波、次男義理は美作、三男氏冬が因幡、五男の時義が伯耆を治める。おりから、管領細川頼之の補佐で三代将軍義満の大名制圧が始まっていた。翌応安五年に氏清に丹後・出雲を追加、時義が但馬守護に任ぜられた。惣領の丹波守護氏清にではなく、弟で領国の接続しない時義(師義の養嗣子)にこれを与えた将軍家の遠謀深慮がうかがえる。なお、氏清に先んじて時義を侍所頭人(所司)に補する。氏清と対立する謂(いわ)れである。
義満は氏清を和泉、兄の義理を紀伊守護に充てる。これは南朝牧束に尽力させるためだが、氏清を侍所頭人に補するなど、氏清・時義兄弟を競わせた感がある。なお、時義は備後守護に任ぜられ、山名氏は瀬戸内に進出した。山名一族の守護領国は十ケ国をかぞえる。 義満は氏清を和泉、兄の義理を紀伊守護に充てる。これは南朝牧束に尽力させるためだが、氏清を侍所頭人に補するなど、氏清・時義兄弟を競わせた感がある。なお、時義は備後守護に任ぜられ、山名氏は瀬戸内に進出した。山名一族の守護領国は十ケ国をかぞえる。
-康応元年(一三八九)三月、将軍義満は嚴島詣を決行した。讃岐に退隠していた管領家の細川頼之を訪い、諸大名制圧策を諮るためもあった。山名氏が槍玉にあがった。南海道大将の細川氏としては、山名氏が和泉・紀伊および備後に進出したのは好ましくない。南朝攻略に起用したのだが、瀬戸内を掌握される懸念がつのった。嚴島詣に時義は+康応元年(一三八九)三月、将軍義満は嚴島詣を決行した。讃岐に退隠していた管領家の細川頼之を訪い、諸大名制圧策を諮るためもあった。山名氏が槍玉にあがった。南海道大将の細川氏としては、山名氏が和泉・紀伊および備後に進出したのは好ましくない。南朝攻略に起用したのだが、瀬戸内を掌握される懸念がつのった。嚴島詣に時義は病床に在ったため、嫡子の時熈に接待させた。これで将軍義満の不興が噂された。間もなく時義は没するが、時熈の家督は許されない。これに氏清が介入、但馬守護を獲得した。なお、伯耆守護は師義の三男満幸が兼ねた。翌明徳元年に備後守護を細川頼之が握るが、氏清・満幸とともに時熈・氏之兄弟の追討を命ぜられた。この功で満幸は出雲,隠岐の守護に任ぜられる。 
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 +ちなみに、山名一族の領国は十一方国に達した。惣領氏清の威令もほぼ一族に徹底することになった。しかし、将軍家では山名氏制圧の謀略をめぐらしている。氏清を反乱に追いこむのである。 
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 +山名氏は時氏で世に出た。時氏は出世すると、将軍家の足利氏に対抗する意図も生じたらしい。一族だが、新田氏の流れである。南朝に一時從属したのも、この対抗意識のせいといえるかもしれない。時氏が足利将軍家に帰参、それが処罰もうけず、重臣として遇されたことは世評も芳しくなかった。もちろん、警戒されるし、一家内訌をうながす魔手も及んできた。しかし、山名氏は領国拡大に驀進する。将軍家への対抗意識が猛進の原動力だったことであろう。 
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 +氏清が六分一殿といわれたのは、日本全国六十六が国のうち十一方国を領したことにたいする軍記もの記者の賛辞らしい。領国の数からいえば将軍家にまさる。しかし、領国は質が問題である。 
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 +**明徳の乱 [#i64b19c4]
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