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** 六分一大名 [#de601d7a] ** 六分一大名 [#de601d7a]
-王政復興の建武中興が破れ、南北朝動乱が始まった。足利尊氏の幕府開設に山名時氏(一三〇三~七一)は協力、建武四年(一三三七)伯耆守護に任ぜられ、山陰道の平定を命ぜられた。康永二年(一三四三)には丹波守護になるが、但馬の見開山城の新田義宗を攻め、南党の太田垣・八木・三宅・田結庄(たいのしょう)らを誘降している。但馬・因幡は南朝勢力の強いところだったのも一因、足利尊氏・直義兄弟の確執もからんで時氏は南朝に一時降参している。山陰道の確保をはかる時氏としては、但馬でその勢力路線が切断されているのを憂慮、完全掌握を期したのである。南朝からは丹波,但馬・因幡・美作・備中・備後などの守護に任ぜられ、貞治二年(一三六三)に二代将軍義詮のもとに帰参のさいは侍所頭人家(四職家)に列し丹波・丹後・因幡・伯+王政復興の建武中興が破れ、南北朝動乱が始まった。足利尊氏の幕府開設に山名時氏(一三〇三~七一)は協力、建武四年(一三三七)伯耆守護に任ぜられ、山陰道の平定を命ぜられた。康永二年(一三四三)には丹波守護になるが、但馬の見開山城の新田義宗を攻め、南党の太田垣・八木・三宅・田結庄(たいのしょう)らを誘降している。但馬・因幡は南朝勢力の強いところだったのも一因、足利尊氏・直義兄弟の確執もからんで時氏は南朝に一時降参している。山陰道の確保をはかる時氏としては、但馬でその勢力路線が切断されているのを憂慮、完全掌握を期したのである。南朝からは丹波,但馬・因幡・美作・備中・備後などの守護に任ぜられ、貞治二年(一三六三)に二代将軍義詮のもとに帰参のさいは侍所頭人家(四職家)に列し丹波・丹後・因幡・伯耆,美作の五ケ国守護に補せられている。山陰道大将の重任を帯びていたのがわかる。応安四年(一三七一)、時氏は死没し、長男の丹後守護師義は病弱のため、四男の氏清(一三四四?~九一)が家督して丹波、次男義理は美作、三男氏冬が因幡、五男の時義が伯耆を治める。おりから、管領細川頼之の補佐で三代将軍義満の大名制圧が始まっていた。翌応安五年に氏清に丹後・出雲を追加、時義が但馬守護に任ぜられた。惣領の丹波守護氏清にではなく、弟で領国の接続しない時義(師義の養嗣子)にこれを与えた将軍家の遠謀深慮がうかがえる。なお、氏清に先んじて時義を侍所頭人(所司)に補する。氏清と対立する謂(いわ)れである。 
 +義満は氏清を和泉、兄の義理を紀伊守護に充てる。これは南朝牧束に尽力させるためだが、氏清を侍所頭人に補するなど、氏清・時義兄弟を競わせた感がある。なお、時義は備後守護に任ぜられ、山名氏は瀬戸内に進出した。山名一族の守護領国は十ケ国をかぞえる。 
 +康応元年(一三八九)三月、将軍義満は嚴島詣を決行した。讃岐に退隠していた管領家の細川頼之を訪い、諸大名制圧策を諮るためもあった。山名氏が槍玉にあがった。南海道大将の細川氏としては、山名氏が和泉・紀伊および備後に進出したのは好ましくない。南朝攻略に起用したのだが、瀬戸内を掌握される懸念がつのった。嚴島詣に時義は 
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