1: 2016-02-22 (Mon) 21:22:51 admin source 2: 2016-02-22 (Mon) 21:58:38 admin source
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その日は丁度、老僧の二(ふた)逮夜(たいや)当日で、「これは良いお供えの品を納めてもらえた。」と喜ぶ反面、「もう2週間早く印刷に出していたら、老僧自身が本を手にとって出来映えを確かめられただろうに。」と少し残念な気持ちも半分。 その日は丁度、老僧の二(ふた)逮夜(たいや)当日で、「これは良いお供えの品を納めてもらえた。」と喜ぶ反面、「もう2週間早く印刷に出していたら、老僧自身が本を手にとって出来映えを確かめられただろうに。」と少し残念な気持ちも半分。
もし、老僧生前に本が出来上がっていたなら多分今頃は『正誤表』作りに勤しんで居て、死(し)辰(しん)も少しは先延ばしとなっていたかも知れません。そう思うと残念な気持ちの方が勝るでしょうか? もし、老僧生前に本が出来上がっていたなら多分今頃は『正誤表』作りに勤しんで居て、死(し)辰(しん)も少しは先延ばしとなっていたかも知れません。そう思うと残念な気持ちの方が勝るでしょうか?
 +**法雲寺の歴史の不明点 [#n272e9dc]
法雲寺の歴史の中で幾つか不明な部分があります。その一つが村岡山名氏菩提寺となる江戸時代より前の法雲寺の姿。また、村岡山名氏菩提寺と定めた山名矩(のり)豊(とよ)公が晩年、それまでの日蓮宗から天台宗へ法雲寺を宗旨替えさせた事です。矩豊公は自他共に認める熱心な法華経信者でしたから尚更のことです。この宗旨替えの事も、法雲寺の前身のことも、その辺りの事情を説明したものは何も伝わっていません。 法雲寺の歴史の中で幾つか不明な部分があります。その一つが村岡山名氏菩提寺となる江戸時代より前の法雲寺の姿。また、村岡山名氏菩提寺と定めた山名矩(のり)豊(とよ)公が晩年、それまでの日蓮宗から天台宗へ法雲寺を宗旨替えさせた事です。矩豊公は自他共に認める熱心な法華経信者でしたから尚更のことです。この宗旨替えの事も、法雲寺の前身のことも、その辺りの事情を説明したものは何も伝わっていません。
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-以下は、この「法雲寺縁起」刊行にまつわる紆余曲折です。 
-私が何かの調べ物の折りに、江戸時代の初めに起きた日蓮宗内の「受不施派」と「不受不施派」の対立に関する一文を目にし、それを老僧に渡したことが有りました。+**「法雲寺縁起」刊行にまつわる紆余曲折 [#d51090ce] 
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 +私が何かの調べ物の折りに、江戸時代の初めに起きた日蓮宗内の「受不施派」と「[[不受不施派>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E5%8F%97%E4%B8%8D%E6%96%BD%E6%B4%BE]]」の対立に関する一文を目にし、それを老僧に渡したことが有りました。
対立の内容は長くなるので、ここでは触れませんが、最終的には江戸幕府の裁定により「不受不施派」は解散させられ、その所属寺院は「受不施派」に転派するか、天台宗への宗旨替えを迫られます。その年代が元禄4年(1691)で法雲寺が天台宗に変わった年と一致するのですが・・・ 対立の内容は長くなるので、ここでは触れませんが、最終的には江戸幕府の裁定により「不受不施派」は解散させられ、その所属寺院は「受不施派」に転派するか、天台宗への宗旨替えを迫られます。その年代が元禄4年(1691)で法雲寺が天台宗に変わった年と一致するのですが・・・
正直な話、私などは例え同時期のことであったとしても、片や当時の仏教界のみならず江戸幕府を巻き込んでの大論争と、山名氏菩提寺とは言うものの但馬の山寺の宗旨替えが直接結びつくとは思えませんでしたが、老僧には何か感じるものがあったのでしょう。数日の内に、法雲寺と同じ時期に日蓮宗から天台宗に転向した東京のお大寺(たいじ)(碑文谷・圓融寺)のご住職に問い合わせの手紙をしたためて居りました。 正直な話、私などは例え同時期のことであったとしても、片や当時の仏教界のみならず江戸幕府を巻き込んでの大論争と、山名氏菩提寺とは言うものの但馬の山寺の宗旨替えが直接結びつくとは思えませんでしたが、老僧には何か感じるものがあったのでしょう。数日の内に、法雲寺と同じ時期に日蓮宗から天台宗に転向した東京のお大寺(たいじ)(碑文谷・圓融寺)のご住職に問い合わせの手紙をしたためて居りました。
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それは朧気になっていく一方の記憶を何とか形が分かる間に少しでも文字として残そうとしているようにも見えました。 それは朧気になっていく一方の記憶を何とか形が分かる間に少しでも文字として残そうとしているようにも見えました。
 +**三代の共同作業 [#he0c3313]
一冬の苦闘の末、翌春4月には初期の原稿は完成し、次はこの手書き原稿を元に製本に向けての作業に移るのですが、これは老僧一人では難しく否応なく我々も巻き込まれます。 一冬の苦闘の末、翌春4月には初期の原稿は完成し、次はこの手書き原稿を元に製本に向けての作業に移るのですが、これは老僧一人では難しく否応なく我々も巻き込まれます。
老僧の手書き原稿から息子(副住)がパソコンに文字を入力し、それを引き継いで私(住職)が頁の体裁や資料や図表を加え、老僧が仕上がりをチェックする三人の分業体制で節ごと、章ごとに活字化していく段取りです。 老僧の手書き原稿から息子(副住)がパソコンに文字を入力し、それを引き継いで私(住職)が頁の体裁や資料や図表を加え、老僧が仕上がりをチェックする三人の分業体制で節ごと、章ごとに活字化していく段取りです。
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-(平成28年3月4日法雲寺吉川廣隆)+RIGHT:(平成28年3月4日法雲寺吉川廣隆) 
 +*関連ページ [#g10f62bb] 
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