5: 2009-11-02 (月) 20:11:27 admin ソース 6: 2010-02-20 (土) 14:56:37 admin ソース
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**応仁の乱 [#xa4263a9] **応仁の乱 [#xa4263a9]
 +文正二年(一四六七)正月、元旦の儀式に管領政長は参仕したが、翌二日の管領邸御成りは中止された。同日、畠山義就が参仕した。やがて、管領に斯波義廉が補任せられ政長は罷免された。宗全は盟主に推されたが、管領に起用はなく、なお、義就の任用もない。むしろ三管領家輪番制の旧態依然たるものだった。革新にはほど遠い。将軍家御所は山名宗全らが扼し、なお義視も迎え入れたので、勝元は将軍家と遮断されてしまった。将軍義政は勝元の政長支援を問責、これと絶縁を命じた。やがて、義就と政長との決戦が許されるが、勝元は宗全が義就を援助しないことを条件にこの命令も呑んだ。
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 +正月十八日拂曉、上御靈の森に陣取った政長軍を義就軍が攻撃した。終日勝敗は決しない。しびれをきらして山名政豊(宗全の孫)や斯波義廉の部将朝倉孝景が義就軍に加わったため、政長軍は敗北潰走する。政長は勝元の支援をもとめて彼の邸宅近くに陣取ったし、再三援兵を請うたが勝元は動かない。
 +将軍家とつねに共にあることで細川氏は利を得た。将軍家と遮断された勝元は爲すすべもなかった。宗全らは快勝に酔った。宗全には往昔、細川頼之の謀略に敗れた明徳の
 +乱の仕返しができた喜びもある。急を聞いて上洛した諸国兵も国もとに帰らせている。
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 +これにたいし、細川一族は雪辱の期を狙った。赤松政則はふるさと播磨に下向、山名軍と戦っている。宗全を惱ます軍略ででもあろう。なお、与党の大名らには秘かに各邸宅の要塞化を命じた。立地条件が幸わいし、蹶起すれば将軍家包囲網となり、宗全党を将軍家から遮断できる見とおしである。宗全も風雲の急を感じて与党大名と軍議したが、兵力不足がつまづきの基だった。将軍義政や富子は宗全や斯波義廉に自重を命じたという。五月二十六日、細川党が宗全与党の攻撃を始めた。宗全配下の垣屋軍などが敗退している。合戦は焼掠戦である。緒戦一両日で上京諸所が焼かれた。利運の勝元は義政に宗全追討を要請するし、義視を将軍家に迎え入れた。すでに宗全の次男の是豊が勝元党に投ずるし、管領斯波義廉が降服を申入れたといわれる。宗全党は機先を制され、戦意もあがらない。六月、義視が将軍旗を授けられ、宗全追討の大将に任ぜられた。日野富子らが将軍旗親授を阻止するに努めたという。富子が宗全や義就に好意を寄せていたのがわかる。ここで宗全らは賊軍となるわけだが、不思議ながら官軍・賊軍といわれない。いつしか、東軍・西軍の称が生ずるのである。やがて西陣の地名が生じ、そこに陣取った宗全の名ものこる。
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 +月末に宗全軍八万が到来した。四万は丹波に残したともいわれるので、数万の兵数だったのはたしかだろう。西軍大将の面目が立ったといえる。これまで西軍は但馬を故郷とする越前の朝倉孝景の奮戦で支えられていた。斯波義廉が降参を申入れたとき、朝倉の首を持参せよといわれたという。勇者だったのがわかる。なお、八月に大内政弘の大軍が上洛する。これで西軍も退勢を挽回した。このおり、東軍が主上や上皇を室町第(将軍家御所)に奉迎している。すると義視が将軍家から出奔した。西軍の勝利を恐れたのである。両軍ともに動員の諸国大名軍が到来したことになり、そして街地戦が決行される。問もなく帝都は廃墟と化するのである。
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 +翌二年、出奔の義視が帰京するが、義尚擁立の伊勢貞親が参仕しているのに絶望、同年末に西軍に投じた。西軍は将軍家を東軍に擁せられている不利を脱し、天下分け目の合戦が挑めるわけだし、軍兵の動員には役立つのだが、西軍諸将間に賛否両論がきかれる。一方、義尚の家督が確定、日野富子が気負って義政としばしば衝突する。富子に親しんだ宗全や畠山義就などは降参も考えたらしい。
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 +両軍の合戦は一進一退、いわゆる泥沼合戦となった。補給などの問題もあるし、国もとにも東西両党合戦が波及した。とくに恩賞は望めず、消耗戦にすぎない現実を知ると、厭戦気分もつのってくる。大名軍の帰国もはじまる。しかし、新規に上洛軍があり、それでしばらく戦火もあがるというものだった。
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 +将軍義政が酒色に明け暮れ、禁裏は念仏生活だという識者の慨嘆も聞かれる。文明四年(一四七二)、老体で弱気となったか宗全は勝元に講和を申し入れた。勝元も気を動かしたが、赤松政則が播磨・美作・備前の領有を主張して譲らないのでご破算となった。宗全も勝元も面目を失なった。宗全は自刃をはかり、勝元は髻(もとどり)を切ったと伝えられる。そして宗全は家督を教豊の順養子としていた政豊に譲った。政豊は一時、東軍に降ったという噂もあった人物である。なお、教之が伯耆に下国、間もなく病死している。
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 +翌五年三月、前年の自刃の後遺症も作用してか宗全は病死した。西軍大将の名をあげた勇者としては淋しい死去といえるだろう。ところで、月余にして勝元が流行病で急死する。これまた不思議といえる。
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 +大将の共倒れで、両軍は解体すべきものだが、東軍の細川一族の団結は固く、諸将の動搖もない。西軍は大内政弘邸に諸将が会したという。政弘を大将として結束したものだろう。義視を将軍として戴いているのも幸いだった。東西両軍の対峙はつづく。実は、大内政弘は宗全にまさる活動を示していた。郷国からの海路補給路のほか、山名是豊を追却して山城を握り、兵站(へいたん)基地としたことも役立った。大和をはじめ近国からの補給路を握っている。
 +ちなみに、義視が将軍に奉戴されて以来、大将宗全の権威が動揺していたことは否めない。しかし、侍所所司の最長老であり、東軍ながら大将細川勝元の義父だというのが大将の座を確保せしめていたといえるだろう。
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 +**山名氏の余光 [#b83b5f99]
 +宗全の名跡を継いだ政豊は、山陽道における宿敵赤松氏の脅威に焦心した。同年、義尚(よしひさ)が成人して将軍に補せられた。後見の日野富子が女将軍と称せられるが、これが将軍家の存在をはっきりさせた。なお、将軍家の花御所が安泰、花御所は禁裏もかねた。このため、東軍に官軍色が輝いた。おりから、両軍対峙のさなかだが、難民の小屋がけに始まって町民の町づくりが進んできた。戦後復興景気も起こる。そこで戦爭怨嗟(えんさ)と平和願望が高まる。怨嗟は戦火メーカーたる大小名軍に集中する。花の帝都を田舎人に蹂躙されたという住民感情もこれに作用する。大小名らが下国を早める一因となったらしい。このおり両軍から棚上げされて武力放棄にも似た将軍家や公家の伝統的権威が仰がれる。西軍はいよいよ不利となる。
 +翌六年、講和機運が高まり、山名政豊がまず細川改元と講和した。但馬・備後を確保できた。なお、四職家が就任する例で山城守護にも任じられた。太田垣・垣屋らの老臣は同意したが、不満とする者もあったらしい。播磨などは旧主の赤松氏が狙っており、保持はむずかしい。ぜんじ、家臣らも講和を了承するが、家臣らの下剋上もつのってきたのがわかる。ともかく、この講和は但馬確保という点では賢明だったといえる。同九年に終戦となった。西軍大名の多くは帰国したが、政豊は在京した。結局、山名本家には但馬と備後が残り、他は喪失する。なお、因幡・伯耆が一族に残った。しかし、六分一大名・十か国大名の称は全く消えた。
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 +なお、山名氏としては播磨を領有したい。ところが、赤松政則が播磨・美作・備前を獲得、山名勢力の一掃をはかった。なお、政則は在京は避け、侍所には家臣の浦上則宗を所司代として在京せしめる。対抗上、政豊も下国を余儀なくされる。同十年九月に下国、以後はほぼ在国した。ちなみに、備後には次子俊豊を送りこんでいる。なお、翌十一年には因幡に出兵、山名豊氏・豊時を援けて国人森二郎の反乱を鎭定する。森二郎を政則が支援したといわれる。
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 +山名政豊はしばしば播磨に進撃した。敗北に終わるので、家臣らに異論も生じたが、文明十六年(一四八三)、赤松政則が浦上則宗に追放されたのに乘じて進撃、則宗を敗走させて赤松領国を收める戦果をあげた。間もなく、政則の反撃をこうむるが、長享二年(一四八八)に大敗、完全撤退にいたるまで坂本城などを維持していたのが注目される。しかし、この大敗の波紋は大きい。家臣らが政豊を廃して俊豊(長男)に代らせる謀略に遭い、一時は逃避する破目となった。俊豊らと反目することになるし、家臣らの下剋上や対立を制止する権威も失せる。このおり、但馬は戦国乱世に突入した感がある。
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 +政豊は晩年、俊豊と戦ってこれを敗死せしめた。三男の致豊が家督して但因両国守護となるが、内憂外患に遭遇した。以下は他稿にゆずる。
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 +山名氏は時氏・氏清・時熈および宗全の四代が相次いで名声をあげた。時氏は辺隅の百姓同然の出自だったが大出世したと述懐している。四代各人それぞれ出世街道を異にしたし、波瀾万丈の人生だったかもしれないが、福徳満足と評さるべきものであろう。三代目の時熈で名族山名氏の盛代がうたわれるが、西軍大将の栄名をあげた宗全の存在もこれを補強した。それぞれ持ち味に掬すべきものがある。この四代累積の栄光を負って山名氏は連綿したといえる。
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