村岡山名初代にして、因幡山名最後の当主。
最初、因幡山名の家督を継いだのは豊国の兄の豊数であったが、家臣の叛意により一時、兄とともに領国因幡を追われ、但馬にて起死回生を計る。
兄の死後に山中鹿介等の尼子残党の支援を受け領国を取り戻し、因幡山名の家督を継承。
しかしこの時に、尼子の支援を受けたことが、尼子と敵対していた毛利の怒りを買い、毛利勢に鳥取城を攻められ降伏。以降は毛利の家臣として尼子氏残党と戦う。
天正8年(1580年)に織田信長の命を受けた羽柴秀吉(豊臣秀吉)の軍勢が鳥取城を攻めた折には、一旦は籠城するものの、家臣団の反対を押し切り、秀吉に一人降伏。
この行動が、「娘を人質に取られていたため」、「暗愚な総大将豊国を家臣が嫌い追い出した」など色々といわれているが、総じて豊国公に対して、余り宜しくない伝承の方が一般的なのかもしれない。
秀吉に下った豊国は秀吉の軍に加わり鳥取城を攻める側となる。その後、秀吉の御伽集として、持ち前の文化的才能を発揮し秀吉に仕えた、関が原の合戦では家康側に付き、その功績により但馬七美郷を領地として安堵され、交代寄合(大身旗本として大名と同等の扱い)として代々の将軍に仕える基礎を築いた。
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初版日時: 2008-06-02 (月) 17:09:40
最終更新: 2009-04-03 (金) 11:25:05 (JST) (5502d) by admin