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Backup diff of 寺報・書籍​/山名​/1号​/山名常熈の嫡子満時について vs current(No. 3) :: 東林山法雲寺のホームページ

Backup diff of xpwiki:寺報・書籍/山名/1号/山名常熈の嫡子満時について vs current(No. 3)

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3: 2010-02-20 (Sat) 17:59:34 admin[6] source[7] Cur: 2010-02-28 (Sun) 16:50:52 admin[6] source[8]
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とあるのがそれと考えられる。 とあるのがそれと考えられる。
*三、満時の歴史的意義 [#kfb94870] *三、満時の歴史的意義 [#kfb94870]
-室町幕府の大守護でありまた四職家の山名常熈の嫡子として生れた満時は二十五歳にして早世したため常熈の跡を+室町幕府の大守護でありまた四職家の山名常熈の嫡子として生れた満時は二十五歳にして早世したため常熈の跡を継ぐことはなかったが、満時の帯した「伊豫守」の受領官は祖父時義の官でもあり、また宮内少輔は父時熈(常熈)の官であった。刑部少輔の官はのちに弟の持熈が帯することになる。修理大夫は祖父時義の兄義理(時氏の第二子)の官であったが、これはのち義理の孫教清(常勝)に継がれている。 
 +満時の跡は因幡守護山名熈高の子、山名熈成が継いだが、これは熈高系の因幡守護家との結束を願ってのことであろう。 
 +満時の死後山名常熈の後継者と目されたのは満時の弟刑部少輔持熈であった。しかし六代将軍義教の山名家に対する内政干渉により持熈の弟弾正少弼持豊(宗全)が常熈の跡職を継いだ。満時の死は父常熈の願いをくるわせたのである。このことは守護山名一族の惣領となった持豊の性格とあいまって常熈没後の山名一族の動向に大きな影響を与えたといえる。 
 +父常熈は応永二十八年(一四二一)正月二十一日、南禅寺栖眞院において嫡子満時の一周忌の法要を営んでいる。南禅寺住持惟肖得巌は常熈の依頼により次のように常熈・満時父子のことを述べている。 
 + 栖眞院殿欣叟大禅定門小祥忌香……応永二十有八年正月二十一日、恭値某人小祥忌之辰、就于本院、鳩淨侶説忌齋、竊承、大人巨川大居士、於日前伸紙染毫、楷書妙経一部、一点一画、悉従深慈病悲中流出……、又聞、田公宗正信男、日者侍叟左右、最被親狎、茲辰、特辨淨戝薦淨供、以報旧恩、其志又可題矣……盖欣叟、天資超倫、擧動不苟、上奉君臣、恭而有礼、下遇諸佐、信而有恩、凡有制行、有感於人、故追修悼慕、獲如斯勝報、可謂膏沃者其光曄……。 
 +(「東海橘華集一」「五山文学新集」所収) 
 + 
 +巨川つまり常熈は法華経を書写して満時を供養し、また満時の生前、日頃近侍していた田公宗正も淨戝を寄せ旧恩を謝している。 
 +香語で惟肖は満時の人柄について次のとおり語っている。 
 + 満時は天性人にすぐれ、その立居振舞はなおざりでなくいやしからず、上位の者に対しては恭しくして礼儀をわきまえ、下位の者については信じてその補佐をうけこれに報いた。このように道理をわきまえ人に感銘を与えた。 
 + 
 +栖眞院殿欣叟大禅定門とは山名満時の法号であるが、山名常熈は南禅寺の地内に満時の菩提所として栖眞院を造営している。 
 +満時の死に悼む常熈に和して惟肖は一句を呈したが、これに臨済宗夢窓派の禅僧心田清播(一三七五~一四四七)が和した一句がある。拙著『山名常熈と禅刹』一○八頁では、これを常熈追悼に関する句としたが満時に関する句であろう。 
 + 
 +   和悼山名殿 本匀惟肖 
 +  多芸憐君鬢兵緑 新阡覆土器聲残 
 +  衣冠人物一門表 騎射風流千衆観 
 +  玉樹階座駐□聚 梨花院落閉微寒 
 +  飛騰可惜男児志 万里雲霄早折翰 
 +                     (「心田詩藁」) 
 + 
 +栖眞院とは清眞つまり孑ろ7厶教のことであるが、これなどは常熈の宗教的教養を示すものでもあろうか。 
 +江西竜派の「続翠詩集」にも満時に関する一句がある。 
 +   次韻挽山名源京兆 
 + 京兆成土末乾   三分春色一分残 
 + 章台揚柳断膓色 春鬢白頭無次第 
 + 夜泉華屋阻喧寒 栖眞ショウ化帰來鶴 
 + 何處仙山拾墜翰 
 + 
 +現在、山名宗全(持豊)の菩提所として知られる南禅寺の塔頭寺院眞乗院は、持豊の兄満時の菩提所栖眞院の由緒をひくものである。栖眞院の主財源としては、但馬・備後守護山名家からの援助の他に次の二が所の所領が検出できる。 
 +1因幡国大江郷船岡東西 
 +(『蔭凉軒口録」長禄二年八月四口条) 
 +2備後国泉田内四ヶ村(遠碧院請地山門千手堂領) 
 +(『山内家文書』-大日本古文書-) 
 + 
 +遠碧院とは但馬・備後等守護山名宗全(持豊)であるが持豊は兄満時の菩提所栖眞院の地を引継いでいたのである。 
 +因幡国大江郷船岡東西が南禅寺栖眞院領になっていることは1の史料でわかる。 
 + 香嚴院御成……但還附之御成也、……南禅寺栖眞院領、不知行之在所、因幡国大江郷船岡東西、山名治部少輔押領、……於各自寺奉行即命之。 
 + 
 +因幡国大江郷(現、鳥取県八頭郡船岡町)は八上郡に属しているが大江郷の内の船岡東と船岡西が栖眞院領であった。 
 +備後国泉田内四が村が南禅寺栖眞院領であることは次の史料により判明する。 
 + 栖眞院領四が村代官職事、雖三吉涌喜条々申子細候、 
 + 爲院主可有直務之由申付候、可被止違乱候、恐々謹言、 
 + 十月廿六日俊豊(花押) 
 + 山内大和守殿 
 + 
 +この文書は延徳二年(一四九〇)に備後守護山名俊豊が備後の国人山内大和守豊成に宛て栖眞院領四方村を栖眞院の直務支配とすることを通知したものであるが、この栖眞院が南禅寺の塔頭であることは前述した「蔭凉軒日録』の長禄二年(一四五八)八月四日条に「南禅寺栖眞院領」とあることによって明らかである。 
 +では栖眞院領四夕村の在所はどこであろうか。これについては延徳二年六月二十八日付栖眞院真崇宛山名俊豊書状に 
 + 「御院領備州泉田内三ヶ村御代官職事、就山内大和守と三吉涌喜上野介相論之儀、可有御直務之由、以前承候之問、其分申定候き……」 
 + 
 +とあり、この三ヶ村が備後国憲蘇郡泉田庄内(現、広島県庄原市)にあることがわかる。 
 +同年六月五日栖眞院真崇は山内豊成を、遠碧院請地山門千手堂領備後国四ヶ村代官職に補任し、豊成に毎年一九一貫文を公用として寺納するよう通知し、また同日付けで四ヶ村の公用と三吉涌喜方が連年未進していることを述べているので、この四ヶ村が本来は山門つまり近江国の延暦寺千手堂領であったことがわかる。それを山名持豊が兄満時の菩提所南禅寺栖眞院請地とし、南禅寺栖眞院領としたのである。 
 + 
 +これより前、享徳三年(一四五四)九月五日には栖眞院主宗坡により山内次郎四郎(泰通)に対し、山門領備後国 
 +西條四方村代官職が補任されている。 
 +山名持豊は文安元年(一四四四)三月十二日に山内素通の父時通(上野介)と次の通りに契約している。 
 + 
 + 山門領備後国四ヶ村栖眞院請地之事、従院主代官職契約之旨、令存知候、公用等厳重致取沙汰、於在所者、守補任之旨、可被申付候状如件 
 +                                                             (持豊) 
 + 文安元年三月十二日(花押) 
 + 山内上野介殿 
 + 
 +明徳四年(二二九三)十月一日、山内通忠は延暦寺により山門根本千手院領備後国憲蘇西条河北以下四箇村の所務職に補任されているが、この備後四ヶ村が泉庄(泉田庄)を中心に所在したと考えられる。 
 +満時は但馬・備後・伯耆・因幡・石見・安芸・伊賀等の守護職を帯した山名一族の惣領父山名時熈(常熈)に先立ち早世した。この事が将軍義持の持熈(満時の弟)支持、ついで将軍義教の持豊(持熈の弟)支持となり、持熈と持豊の対立抗争になり、さらに持熈の大覚寺義昭(義教の弟)への接近に発展し、ついに持豊が山名一族の惣領となった。 
 +その持豊は兄満時の余徳をうけて山城国南禅寺栖眞院領を媒介として分国経営の一助としている。 
 + 
 +(平成五年「一九九三」如月成稿)
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