ページへ戻る

− Links

 印刷 

寺報・書籍​/山名​/1号​/山名氏四代の栄光 のバックアップソース(No.2) :: 東林山法雲寺のホームページ

xpwiki:寺報・書籍/山名/1号/山名氏四代の栄光 のバックアップソース(No.2)

« Prev[4]  Next »[5]
#navi

''特別寄稿''

* 山名氏四代の栄光 [#gea8a95f]

RIGHT:''永島福太郎''

山名氏は十四世紀半ばから丹波から石見に至る山陰道に雄飛、但馬・因幡両国を二世紀にわたって確保、室町将軍家重臣の四職家(侍所所司家)の一つとして輝いた。徳川将軍家は山名氏が武門の名家であり、ともに上野新田氏のこうけ後裔という関係もあって、これを高家衆(大名の格)として遇し、乗地には故地の但馬七美郡内を与えた。江戸後期には村岡藩が成立する。
但馬の歴史は、しばらく山名氏とともに歩んだし、近代但馬の発展の基礎は山名氏の治政によって築かれたといえるのである。明徳の乱(一三九一)の六分一殿山名氏清、応仁の乱(一四六七~七七)の赤入道山名宗全はいわゆる「天下分け目」の合戦の大将として史上有名である。

** 山名氏の起こり [#zb4563de]

清和源氏の八幡太郎義家の三男の義国は下野足利郡内に土着した。当時、北関東の両毛地方には藤原秀郷の子孫が繁栄していた(嫡流は佐野氏)。義国の長男の義重は渡良瀬(わたらせ)川を渡って上野新田郡に入って新田氏、次男の義康は藤姓足利氏に代って足利庄を領し足利氏を称する。なお、新田義重の長男の義範は多胡郡山名郷(高崎市)に入った。ちなみに、三男の義兼が新田氏を家督、四男の義季が徳川氏の祖となる。山名氏の家祖の義範は源頼朝の御家人になり、伊豆守護に任ぜられたが、子孫の出世は花ばなしくはない。新田・足利両氏とも雌伏時代だったのである。
王政復古活動の元弘の乱(一三三一~三三)に新田・足利両氏が活躍、脚光を浴びる。山名氏の政氏・時氏父子が足利高氏の西上軍に從って上洛したのが山名氏の出世となる。山名一族は新田義貞に從つた者もあったろうが、高氏に属したことが山名氏の雄飛につながる。

** 六分一大名 [#de601d7a]
王政復興の建武中興が破れ、南北朝動乱が始まった。足利尊氏の幕府開設に山名時氏(一三〇三~七一)は協力、建武四年(一三三七)伯耆守護に任ぜられ、山陰道の平定を命ぜられた。康永二年(一三四三)には丹波守護になるが、但馬の見開山城の新田義宗を攻め、南党の太田垣・八木・三宅・田結庄(たいのしょう)らを誘降している。但馬・因幡は南朝勢力の強いところだったのも一因、足利尊氏・直義兄弟の確執もからんで時氏は南朝に一時降参している。山陰道の確保をはかる時氏としては、但馬でその勢力路線が切断されているのを憂慮、完全掌握を期したのである。南朝からは丹波,但馬・因幡・美作・備中・備後などの守護に任ぜられ、貞治二年(一三六三)に二代将軍義詮のもとに帰参のさいは侍所頭人家(四職家)に列し丹波・丹後・因幡・伯耆,美作の五ケ国守護に補せられている。山陰道大将の重任を帯びていたのがわかる。応安四年(一三七一)、時氏は死没し、長男の丹後守護師義は病弱のため、四男の氏清(一三四四?~九一)が家督して丹波、次男義理は美作、三男氏冬が因幡、五男の時義が伯耆を治める。おりから、管領細川頼之の補佐で三代将軍義満の大名制圧が始まっていた。翌応安五年に氏清に丹後・出雲を追加、時義が但馬守護に任ぜられた。惣領の丹波守護氏清にではなく、弟で領国の接続しない時義(師義の養嗣子)にこれを与えた将軍家の遠謀深慮がうかがえる。なお、氏清に先んじて時義を侍所頭人(所司)に補する。氏清と対立する謂(いわ)れである。
義満は氏清を和泉、兄の義理を紀伊守護に充てる。これは南朝牧束に尽力させるためだが、氏清を侍所頭人に補するなど、氏清・時義兄弟を競わせた感がある。なお、時義は備後守護に任ぜられ、山名氏は瀬戸内に進出した。山名一族の守護領国は十ケ国をかぞえる。
康応元年(一三八九)三月、将軍義満は嚴島詣を決行した。讃岐に退隠していた管領家の細川頼之を訪い、諸大名制圧策を諮るためもあった。山名氏が槍玉にあがった。南海道大将の細川氏としては、山名氏が和泉・紀伊および備後に進出したのは好ましくない。南朝攻略に起用したのだが、瀬戸内を掌握される懸念がつのった。嚴島詣に時義は


#navi

« Prev[4]  Next »[5]