ページへ戻る

− Links

 印刷 

寺報・書籍​/山名赤松研究ノート​/1号​/歴史は生きている のバックアップソース(No.3) :: 東林山法雲寺のホームページ

xpwiki:寺報・書籍/山名赤松研究ノート/1号/歴史は生きている のバックアップソース(No.3)

« Prev[4]  Next »[5]
#navi(寺報・書籍/山名赤松研究ノート/1号)
*歴史は生きている [#ma884434]
○過去があって現代があり、そして未来へとつづく
○山名・赤松両氏関係の概略を平易に書いてみた
RIGHT:''(竹田)田中一郎''
#clear

**目次 [#xeb03723]
一、始めにひとこと
二、町民に歌われ続けている山名・赤松氏
○地元小学校歌 ○運動唱歌
○利田山町民歌 ○和田山町音頭
三、歴史に生きる竹田小学校「城跡の庭」
○生き続けている歴史-写真資料
四、山名氏と但馬と竹田-そのあらまし
○山名氏の出自
○山名氏の基礎固めをした時氏
○山名氏系図(史料)
○山名氏の本拠此隅山城 ○生野町大明寺
○月庵に心酔した時義と時熈 ○月庵と老狼
○明徳の乱 ○豊岡市史「こぼれ話」
○嘉吉の乱-山名・赤松両氏の争い
五、応仁の乱と山名氏
○夜久野が原の合戦と「内藤塚」
○人間としての山名宗全
六、赤松広秀の民政と史跡竹田城址
○城跡をどう見るか
○山名・赤松両軍の供養塔建立
○赤松広秀と藤原惺窩「広秀を悼む和歌三十首」
○「看羊録」と「姜沆(原本はニスイ)」のこと
○広秀の民政
七、山名・赤松両氏結縁の町づくり
-観点を変えて考える。
○終わりのことば
  参考文献
○兵庫県史 ○但馬史(石田松蔵著)。豊岡市史
○看羊録(姜沆) ○赤松を悼む歌三十首(藤原惧惺窩)
○城郭大系(新人物往来社)
○和田山町の歴史 ○朝日・日本の歴史
○生野町史

**はじめに [#q7d709b8]
山名・赤松両氏の交渉に関する事象をテーマにして書いてほしい。それは両軍戦没諸霊供養塔の開眼供養として小冊子を作りたいから--と、顕彰会からご依頼を受けたのが一月下旬であった。
三月末日までにまとめて下さいとある。
二か月あるとは言うものの年度末のこと故何かとせわしい。もちろんその実力もない。困ったことだと思ううちにも時間は流れていく。どうしょうかといらいらしていたある日、ふとこんなことに思い当った。
山名・赤松両氏抗争のくわしいことは、その道専門の学者におまかせしょう。幸いにも山名・赤松両氏に深い関係のある「史跡・竹田城址」のふもとに住んでいるわたし。「城と住民」との生きざまは毎日自分の眼で見ているし、わたしもその住民の一人ではないか。そのことを書こう。
そして、山名・赤松両氏の流れを汲む方がたに、一人でも多く知っていただこう。住民の血や肉の中には廃城となって四百年経た今日に至っても、脈々として生きつづけている山名・赤松両氏の願いを分っていただくことにしょうと、思い定めたのであった。
読み返してみると、すべてにわたって不十分であり不行届きであって忸怩たる思いでいっぱい。
でも、小学校教育にもとり入れられ、町民歌として町民合唱の場にもうたわれている事実を知っていただくだけでもうれしい。
両軍戦没諸霊の安らかに鎮まりまさんことを祈りつつ、執筆の動機を申し述べ、始めのひとこととしたい。
(平成二年三月)
**町民に歌われ続けている山名・赤松氏 [#we3bfdea]
山名・赤松両氏は今も町民に歌われつづけている。
|竹田行進歌詞|竹田小学校譜面|h
|&ref(竹田校行進歌.jpg,mw:320);|&ref(竹田小学校校歌.jpg,mw:320);|

竹田小学校校歌の一番には「虎臥山に年ふりて、その名も高き赤松の」とあり、戦前の卒業生には一入なつかしい竹田校行進歌の六番に「古城落日夕陽の--山名の雄図今いづこ、虎臥城下涙あり」と歌われつづけている。
-町民歌と竹田城跡
|&ref(和田山町民歌.jpg);|&ref(和田山音頭.jpg);|
町の公式行事の時に合唱する町民歌。その一番には「古城さやかに吹く風も歴史を語るふるさとは」とある。ここにも山名・赤松は生きている。
-町音頭と城跡
夏の祭りを始め色いろな催しごとに際して、歌っておどって幅広く普及しているのがこの和田山音頭。出だしの歌詞が「虎臥城に春風吹けば」である。

**歴史に生きる「竹田小学校城跡の庭」 [#k7a4fee0]
CENTER:''竹田小学校長 下村登''
#clear
本校では三年がかりで、城跡のある古城山と学校とを結ぶ「城跡登山路」を造成し、平成元年秋には十三ケ月を要して全国でただ一つの「竹田城跡の庭」(縮尺二十五分の二)を竣工させました。この城跡は「山名・赤松両氏ゆかりの史跡」であり、ふるさとを愛しその歴史と文化に親しむ心を育てるために、地教委の助言もあり、子と親と教師による汗の「教育づくり」として取り組んだものであります。縄張りのすばらしさを示す城跡の石垣は、全児童が川原で集めた栗石でしっかりと支えられ、「南千畳」の一角には一人ひとりの「二十一世紀へのメッセージ」を収めたカプセルが、大切に納められています。
「二十一世紀の成人の日に、ぼくたちは必ず地球の各地からこの庭に集まって来ます」
「城跡の庭」は、ふるさとを愛する心の出発点であり、母校を巣立つ子らの心のふるさととして、永く雄々しく本校の庭にたたずまいつづけることでしょう。

***生きつづけている歴史 [#m7486927]
-竹田城址の場合
竹田小学校庭に作られた竹田城跡の模型、-子と親と教師との合作による。
|&ref(P15-1.jpg);|&ref(P15-2.jpg);|
廃城になってから約四〇〇年。今なお住民は当時のことを語り継ぎ言いつぎして、今日に至っている。
|&ref(P16-2.jpg);|
|東の丸から天守曲輪(くるわ)を望む|

|&ref(P16-1.jpg);|&ref(P16-3.jpg);|
*山名氏と但馬と竹田 [#bccbf41c]
○そのあらましについて

**山名氏の出自はどこか [#s44d40d3]

山名氏は、新田義重の長男・義範が「上野国(こうずけのくに)山名郷」に所領を与えられた時から始まり、南北朝動乱に乗じて足利尊氏に従って活躍した。(上野国は今の群馬県。上州ともいう。)
やがて時氏が力をのばして、丹波国守護となったのが一三四三年(康永二年)のことである。

*** 山名氏の基礎を固めた山名時氏 [#i49e97c6]

|AROUND TRIGHT:|c
|CENTER:山名家の系図|h
|&ref(P18.JPG,mw:320);|

丹波国守護となった山名時氏は、領国の拡大をねらって一三四四年(康永三年、豊岡市新田・神美にまた
がる三開山城を攻略する。後醍醐天皇の建武の新政から十年目になる。このころから、山名氏と但馬との結び付きが出来てきたと見てよいのではないか。
山名氏の家臣団となった最初の但馬の武士は八木氏であった。
八木氏の本拠地「八木郷」は古代交通路を考えるとき重要な地点である。
このころ時氏は「因幡・伯耆・丹波・丹後・美作」五か国の守護をしていた。その一つ伯耆国と京都を結ぶ道が山陰道である。
但馬の山陰道筋の国人層を手に入れていたのが八木氏であり、山名時氏が、但馬において足がかりとしたのは、養父・朝来両郡であったと言える。
ここは、「日下部氏」が栄えた地である。養父郡の日下部氏の流れの中で、朝倉氏は越前国で栄える。養父郡では、八木氏がぬきん出る。
朝来郡の日下部氏の流れの中では「太田垣氏」がぬきん出て、両者は後に「山名四天王」の中に数えられた。
朝来・養父の両郷は京都への進攻路に当っているので、但馬を握る拠点となることはいうまでもない。
この地の国人を握ることに苦心した時氏の眼識は高かった。
山名時氏は、一三六八年(応安元年)家督を総領の師義にゆずった。
師義の代に入って、一三七二年(応安五年)山名氏は但馬守護となった。
#clear

***山名氏の本城・此隅山城(出石町宮内) [#xb2362a4]
時義は出石町宮内の地に此隅城を築城した。此隅山は標高一四〇メートルで決して高い山ではない。が、出石、豊岡地方を眼下に見下す絶好の要地である。
城の西方には、日本書紀に書かれている古代但馬を開発したという「新羅の皇子・天日槍」を祭神とする但馬一の宮「出石神社」があり、豊臣秀吉が但馬征伐を行なうまで、山名氏の但馬支配の拠点であった。
特に山名時義の系譜が嫡流を名のり「但馬山名」として勢威を誇るのであるから此隅山城は「但馬支配の中核の城」とも言えるし、時義一族は山名総本家の地位を動かないものにした。
但馬山名初代の時義は、晩年をほとんど但馬で暮らし上洛しなかった。
但馬で病没したのが、一三八九年(康平元年)四十四歳の若さであった。
竹野町の円通寺に葬られている。

|&ref(ID$f7506fef);|但馬一の宮「出石神社」日本書記にあるように、新羅皇子「天日槍(あめのひぼこ)」を祭神とする但馬国一の宮。山名氏の信仰も厚く、戦時に際しては「此隅山城」と結んで接点となっていた。|
|&ref(ID$nc4bf7a2);|

**時義と月庵 [#f0f3f850]
-生野町・大明寺の座禅石
時義とその子「時熈(ときひろ)」は「月庸宗光」に心酔していた。
月庵が開基したという寺は但馬に三か寺ある。生野町黒川の「大明寺」山東町早田の「大同寺」竹野町須谷の「円通寺」である。
|&ref(ID$ne4b60e1);|大明寺の本堂・庫裏など、有名な座禅石は手前中央に見えている。|
|&ref(ID$bc49ebba);|座禅石|

黒川は、先年関西電力の多々良木揚水発電の上部池ダムが構築されてから、一躍多くの人びとが出入するようになり、あわただしい趣きも見られるようになったが、「幽邃」さながらの土地であり、今もその自然は残っていて十分に当時をうかがうことが出来る。
大明寺には実に明朗闊達な住職がいらっしゃって、寺の歴史について興深く語って下さる。わけても「月庵坐禅石」の話がおもしろい。それは、月庵が座禅を組んで瞑想三昧、ひたすら求道の行をなさっているところへ、老いた狼がやってくる。よくよく見るとのどに骨を立てて苦しんでいる。老師が骨を除いてやられると老いた狼は大よろこび。
老師、狼に申されていわく。「今後はこの人里近くに出没して住民を恐れさせてはならないぞ。早く去れ」と。老いた狼は再びこの近くに来ることはなかったという。

座禅石は、当時をもの語るかのように、今も庭前に昔の姿そのまま嘱、残っている。(写真を参照されたい)

(補記)
月庵和尚が座して悟りの道を求めたという座禅石は、もとあったところが関西電力揚水発電のダム築堤工事地となったため、写真のように、現在は開山堂の横に移して安置されている。

**明徳の乱 [#x8244925]
-お家の事情というもの
山名家の本流である「師義」の家の後見役に時義がなった。これは師義の直系の子「満幸」や、時義の兄である「氏清」にとって、心おだやかでないものがあった。
一方将軍足利義満は、かねてから守護大名が強大になることを恐れ、その勢力の増大しないよう考えていた。
山名時義の死後を受けて二十三歳の嫡子,「時熈」が山名宗家を継いで但馬守護となり、弟の「氏幸」が伯耆の守護となったが、それに不平不満を持っていた一族の山名満幸・氏幸らとの内紛を利用して、将軍義満は、「一族同志の争い」にうまく持ちこんだのである。
一三九一年(明徳二年)のことで、世にいう「明徳の乱」である。氏清は討たれた。
結果的には山名時熈がわの勝利とはなったが、一族が相争ったため、時義の時代には、十一か国を占め「六分一殿」(ろくぶのいちどの)と言われていた強大な山名の勢力も落ち目となった。
ここにおいて、将軍義満の考えた山名同族を戦わせて勢力を削減し、終局的には「足利を固める」という作戦は、ある程度成功したといえよう。

#navi(寺報・書籍/山名赤松研究ノート/1号)

« Prev[4]  Next »[5]