14: 2009-08-19 (水) 10:47:33 admin[5] [6] | 現: 2009-09-11 (金) 10:23:33 admin[5] [7] | ||
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特に「第三次赤松再興計画」は、「細川勝元」の指図によるものとして、山名持豊をしてひどく怒らせている。 | 特に「第三次赤松再興計画」は、「細川勝元」の指図によるものとして、山名持豊をしてひどく怒らせている。 | ||
- | **応仁の乱と山名氏 [#z5c13128] | + | ** 応仁の乱と山名氏 [#z5c13128] |
東洋史の泰斗、内藤湖南氏 | 東洋史の泰斗、内藤湖南氏 | ||
「近代日本を理解するには、応仁の乱以降の歴史を知らなければならない」とされたが、「朝日百科・日本の歴史」の所載による、横浜市大助教授・今谷明氏の研究によると次のように発表されている。 | 「近代日本を理解するには、応仁の乱以降の歴史を知らなければならない」とされたが、「朝日百科・日本の歴史」の所載による、横浜市大助教授・今谷明氏の研究によると次のように発表されている。 | ||
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しかし、持国の死後は後を継いだ実子「義就」と猶子(養子のこと)政長との内訌(うちわもめ)が激しくなっていった。 | しかし、持国の死後は後を継いだ実子「義就」と猶子(養子のこと)政長との内訌(うちわもめ)が激しくなっていった。 | ||
- | &ref(ID$nbca0587); P29系図 | + | |AROUND TRIGHT:|c |
+ | |CENTER:&ref(P29.jpg,mh:320);&br; P29系図| | ||
「畠山義就」は東軍の「赤松政則」と並称される豪勇の将であり名将であった。持国の妾腹であったことがわざわいをして政長がかつぎ出された。 | 「畠山義就」は東軍の「赤松政則」と並称される豪勇の将であり名将であった。持国の妾腹であったことがわざわいをして政長がかつぎ出された。 | ||
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彼の信仰心の表われであるとともに、朝来郡との関係の深さを物語っていると言えなくもない。 | 彼の信仰心の表われであるとともに、朝来郡との関係の深さを物語っていると言えなくもない。 | ||
**赤松広秀の民政と史跡竹田城趾 [#r542f785] | **赤松広秀の民政と史跡竹田城趾 [#r542f785] | ||
- | &ref(ID$w82895bb,mw:320);P32写真 | + | |&ref(P32.jpg,mw:320);&br;P32写真| |
野面積の美を見せてくれる「竹田城跡」は、文禄から慶長の初期にかけて現在の遺構となった、と考証されている。 | 野面積の美を見せてくれる「竹田城跡」は、文禄から慶長の初期にかけて現在の遺構となった、と考証されている。 | ||
- | &ref(ID$hf201b8b,mw:320);P36竹田城地形図 | + | |&ref(P33.jpg,mw:320);&br;P36竹田城地形図| |
**史跡・竹田城址をしのび赤松広秀を語る [#nf4bb447] | **史跡・竹田城址をしのび赤松広秀を語る [#nf4bb447] | ||
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だとするなら一五八○年(天正八年)以降ということになる。 | だとするなら一五八○年(天正八年)以降ということになる。 | ||
もっとも、織豊時代以前の山城の構築として、山名.太田垣氏の手になるものと考えられる立派な「たて堀」や「砦」が残存し、現城跡より北へ二五〇メートルほど行った、通称観音寺山には、とりでやたて堀が雑木林の中にはっきりと残っており、山名時代をしのばせるのに十分である。 | もっとも、織豊時代以前の山城の構築として、山名.太田垣氏の手になるものと考えられる立派な「たて堀」や「砦」が残存し、現城跡より北へ二五〇メートルほど行った、通称観音寺山には、とりでやたて堀が雑木林の中にはっきりと残っており、山名時代をしのばせるのに十分である。 | ||
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***二、竹田城跡の見どころ [#kc2d7c02] | ***二、竹田城跡の見どころ [#kc2d7c02] | ||
竹田城跡の歴史的詮索はしばらく置いて、この城の見どころをズバリと申し上げたい。 | 竹田城跡の歴史的詮索はしばらく置いて、この城の見どころをズバリと申し上げたい。 |
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