12: 2009-08-09 (日) 17:50:18 admin[6] [7] | 現: 2009-09-11 (金) 10:23:33 admin[6] [8] | ||
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特に「第三次赤松再興計画」は、「細川勝元」の指図によるものとして、山名持豊をしてひどく怒らせている。 | 特に「第三次赤松再興計画」は、「細川勝元」の指図によるものとして、山名持豊をしてひどく怒らせている。 | ||
- | **応仁の乱と山名氏 [#z5c13128] | + | ** 応仁の乱と山名氏 [#z5c13128] |
東洋史の泰斗、内藤湖南氏 | 東洋史の泰斗、内藤湖南氏 | ||
「近代日本を理解するには、応仁の乱以降の歴史を知らなければならない」とされたが、「朝日百科・日本の歴史」の所載による、横浜市大助教授・今谷明氏の研究によると次のように発表されている。 | 「近代日本を理解するには、応仁の乱以降の歴史を知らなければならない」とされたが、「朝日百科・日本の歴史」の所載による、横浜市大助教授・今谷明氏の研究によると次のように発表されている。 | ||
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しかし、持国の死後は後を継いだ実子「義就」と猶子(養子のこと)政長との内訌(うちわもめ)が激しくなっていった。 | しかし、持国の死後は後を継いだ実子「義就」と猶子(養子のこと)政長との内訌(うちわもめ)が激しくなっていった。 | ||
- | &ref(ID$nbca0587); P29系図 | + | |AROUND TRIGHT:|c |
+ | |CENTER:&ref(P29.jpg,mh:320);&br; P29系図| | ||
「畠山義就」は東軍の「赤松政則」と並称される豪勇の将であり名将であった。持国の妾腹であったことがわざわいをして政長がかつぎ出された。 | 「畠山義就」は東軍の「赤松政則」と並称される豪勇の将であり名将であった。持国の妾腹であったことがわざわいをして政長がかつぎ出された。 | ||
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彼の信仰心の表われであるとともに、朝来郡との関係の深さを物語っていると言えなくもない。 | 彼の信仰心の表われであるとともに、朝来郡との関係の深さを物語っていると言えなくもない。 | ||
**赤松広秀の民政と史跡竹田城趾 [#r542f785] | **赤松広秀の民政と史跡竹田城趾 [#r542f785] | ||
- | &ref(ID$w82895bb,mw:320);P32写真 | + | |&ref(P32.jpg,mw:320);&br;P32写真| |
野面積の美を見せてくれる「竹田城跡」は、文禄から慶長の初期にかけて現在の遺構となった、と考証されている。 | 野面積の美を見せてくれる「竹田城跡」は、文禄から慶長の初期にかけて現在の遺構となった、と考証されている。 | ||
- | &ref(ID$hf201b8b,mw:320);P36竹田城地形図 | + | |&ref(P33.jpg,mw:320);&br;P36竹田城地形図| |
**史跡・竹田城址をしのび赤松広秀を語る [#nf4bb447] | **史跡・竹田城址をしのび赤松広秀を語る [#nf4bb447] | ||
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だとするなら一五八○年(天正八年)以降ということになる。 | だとするなら一五八○年(天正八年)以降ということになる。 | ||
もっとも、織豊時代以前の山城の構築として、山名.太田垣氏の手になるものと考えられる立派な「たて堀」や「砦」が残存し、現城跡より北へ二五〇メートルほど行った、通称観音寺山には、とりでやたて堀が雑木林の中にはっきりと残っており、山名時代をしのばせるのに十分である。 | もっとも、織豊時代以前の山城の構築として、山名.太田垣氏の手になるものと考えられる立派な「たて堀」や「砦」が残存し、現城跡より北へ二五〇メートルほど行った、通称観音寺山には、とりでやたて堀が雑木林の中にはっきりと残っており、山名時代をしのばせるのに十分である。 | ||
- | ***二、・竹田城跡の見どころ [#kc2d7c02] | + | |
+ | ***二、竹田城跡の見どころ [#kc2d7c02] | ||
竹田城跡の歴史的詮索はしばらく置いて、この城の見どころをズバリと申し上げたい。 | 竹田城跡の歴史的詮索はしばらく置いて、この城の見どころをズバリと申し上げたい。 | ||
ここ三、四年前から城跡に杖をひく人が本当に多くなってきた。 | ここ三、四年前から城跡に杖をひく人が本当に多くなってきた。 | ||
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穴太流野面積の見事さである。一にも二にも石垣に注意してほしい。しかし、石積み技法が始めから分かるということは無理なはなしで、時間をかけて見ていくうちに、少しずつ分るようになるものだ。 | 穴太流野面積の見事さである。一にも二にも石垣に注意してほしい。しかし、石積み技法が始めから分かるということは無理なはなしで、時間をかけて見ていくうちに、少しずつ分るようになるものだ。 | ||
たとえば、花屋敷と言われている一郭から仰ぐ重畳たる石積みの重厚にして荘重なこと、南千畳に立って一望する石塁の壮大にして変化に富むすばらしい遠望は「石積みの饗宴」とでも言えようか。 | たとえば、花屋敷と言われている一郭から仰ぐ重畳たる石積みの重厚にして荘重なこと、南千畳に立って一望する石塁の壮大にして変化に富むすばらしい遠望は「石積みの饗宴」とでも言えようか。 | ||
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***三、城の歴史をさぐる [#p46c5dfe] | ***三、城の歴史をさぐる [#p46c5dfe] | ||
竹田城は、但馬国の守護大名であった山名宗全の家臣で、この土地の土豪であった太田垣氏の居城であると言われている。 | 竹田城は、但馬国の守護大名であった山名宗全の家臣で、この土地の土豪であった太田垣氏の居城であると言われている。 | ||
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たまたま鳥取城下は出火によって多くの住民が困窮したが、家康の詰問と亀井のざん言によって罪を一身に負わされ、慶長五年十月二十八日鳥取真教寺において自刃した。年齢三十九歳であった。 | たまたま鳥取城下は出火によって多くの住民が困窮したが、家康の詰問と亀井のざん言によって罪を一身に負わされ、慶長五年十月二十八日鳥取真教寺において自刃した。年齢三十九歳であった。 | ||
- | 鳥取市湯所町「赤松八幡宮」の地に葬られている。 | + | 鳥取市湯所町「赤松八幡宮」の地に葬られている。武人としての広秀は、また政治家としても文化人としても一流の人士であった。 |
- | 武人としての広秀は、また政治家としても文化人と | + | 当時有名な儒者「藤原幌窩」と親交があり、龍野市「景雲寺跡」は両人が青春の血を湧かして勉学に精励した遺跡である。 |
+ | 朝鮮の大儒「姜抗」(きょうこう、かんはい)が、朝鮮の役において藤堂軍にかんはい捕われて捕虜となり滞日中、広秀は四書五経について教えをこうていたのであるが、姜抗の日本見聞録とでもいうべき「看羊録」を書いている。 | ||
+ | 秀吉・家康を始め多くの人物批評など、実に興趣つきない記録といえよう。 | ||
+ | また養蚕業を振興し、税の減免をはかるなど民政の面にも努力したことなど、今に語り伝えて深い影響を与えている。 | ||
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+ | まことに「山名宗全」が着手して播いた竹田城という種子が、直臣太田垣五代によって成長し「赤松広秀」に至って実を結んだという事実は、「恐怖」と「格闘」の中世における一服の清涼剤といえる。 | ||
+ | **山名・赤松両氏結縁の町づくり [#y890d235] | ||
+ | -観点を変えて考えてみよう | ||
+ | 「城と人間」が共存していて訪れる人びとの心をとらえて離さない、そこに住んでいる人たちも「わが町だ」という誇りを持ち「産業の振興」と「文化行政」が一体化していることを願っている、そうした町はないものかということである。 | ||
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+ | 「的(まと)」を兵庫県にしぼった。そして二十一世紀をよりよく生きるための町発展の手がかりを見つけたい、そうした考えに基づいて次の一市二町をあげてみた。 | ||
+ | それは、「出石町」「篠山町」「龍野市」である。 | ||
+ | 出石此隅城と龍野城とは、竹田虎臥城と深い人間的つながりがあるのも何かの奇縁であるが、この一市二町の共通点を次のように言えないだろうか。 | ||
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+ | -第一はともに「城下町」であること。 | ||
+ | -第二ぽ「鉄道から離れ」ていること。 | ||
+ | -第三は「人物が多く出ている」こと。 | ||
+ | -もう一点は「特色のあるものを持っている」ことである。 | ||
+ | 城下町として歴史の重みに耐えて今日に至り、わけても、鉄道から離れている事実は、色いろな事情があったにせよ町政推進に当って苦難の多い道のりであったと推察する。今やクルマ時代の到来によって、さほどなことでなくなり、考えようによってはそのマイナスを逆手にとって、今日の実力をもたらしたといえなくもない。この点、大切なポイント。 | ||
+ | 人物輩出については、出石町には加藤弘之・斉藤隆夫氏などがあり、文教・政治方面に活躍された日本的存在であった。藩主・仙石政辰(とき)は一七七五年(安永四年)学問所を「弘道館」と名づけ、学問を奨励した。但馬文化発祥の地である。 | ||
+ | 篠山町は軍都として栄え本庄繁大将などが出た。 | ||
+ | 龍野市は哲学者として三木清氏、「赤とんぼ」であまりにも有名な三木露風氏などが出ている。 | ||
+ | 最後の特色あるものとしては、出石町では「出石焼」と「出石そば」篠山町では「ぼたん鍋」に「デカンショ節」そして伝統ある「春日能」龍野市の「醤油」と「そうめん」は今さら説明もいらないだろう。 | ||
+ | これらの市町の町づくりで痛感することは、「物と心の調和」のとれた町政を目ざしていることだ、金銭であがなえないものを長年かかって蓄積してきている。質の高い内容ある暮らしこそ町民みんなの願いである。二十一世紀は「日本海時代」だというが、生野・和田山・八鹿・豊岡は「山名の線」でつなげる。生野を仲介として播磨へ、つまり「赤松の線」で、南北が結縁できる。 | ||
+ | それぞれ市・町の個性と伝統を生かした地場産業を発展させ、優良企業を導入して町勢に活力を与え、天与の史跡や自然を生かし、文化活動を盛り上らせた「定住圏構想」の実現を心から期待する次第である。終わりにひと言。城址の一木一石には山名・赤松両氏の霊魂がこもっていることを思うとき、顕彰会の初議によって「両軍陣没諸霊供養塔」が建立され、長く慰霊の儀が執行されることは、まことに時宜を得たことと考える。 | ||
+ | 「徳政相論」という有名な事実がある。国民はいつの場合でも「平和を求め」ている。 | ||
+ | こい願わくば「供養塔建立」が「世界平和」への一歩前進の一里塚になりますように。 | ||
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