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寺報・書籍​/山名赤松研究ノート​/1号​/有感山名赤松和解式 のバックアップ差分(No.2) :: 東林山法雲寺のホームページ

xpwiki:寺報・書籍/山名赤松研究ノート/1号/有感山名赤松和解式 のバックアップ差分(No.2)

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1: 2009-08-19 (水) 11:38:02 admin[6] ソース[7] 2: 2009-08-19 (水) 11:39:06 admin[6] ソース[8]
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川公の経緯もあり播磨に下向して一族を集め鵤(いかるが)の檀特山に籠り一手は山名政豊の室山城に立ち向つた、戦は閏四月二十七日に始まったが、五月になると山名持豊と教豊に率いられた軍勢が大挙但馬から播磨に進攻してきた。書写山坂本城に拠った則尚は北の大軍に抗すべきすべもなく海路備前大島郡鹿久居島(岡山県日生町)に逃れたが、四方を扼され一族郎党二十二人と共に自刃し、五月十三日に法雲寺に於て持豊公により頸実検が行れた。思へば嘉吉の変後最後の抵抗者則尚公のこの終焉は痛恨極りなきことである 川公の経緯もあり播磨に下向して一族を集め鵤(いかるが)の檀特山に籠り一手は山名政豊の室山城に立ち向つた、戦は閏四月二十七日に始まったが、五月になると山名持豊と教豊に率いられた軍勢が大挙但馬から播磨に進攻してきた。書写山坂本城に拠った則尚は北の大軍に抗すべきすべもなく海路備前大島郡鹿久居島(岡山県日生町)に逃れたが、四方を扼され一族郎党二十二人と共に自刃し、五月十三日に法雲寺に於て持豊公により頸実検が行れた。思へば嘉吉の変後最後の抵抗者則尚公のこの終焉は痛恨極りなきことである
本土と鹿久居島とは一衣帯水の日生町に居住する筆者は康正元年四百五十有余年の昔を偲び一詩を賦奠し菩提を弔った次第である。 本土と鹿久居島とは一衣帯水の日生町に居住する筆者は康正元年四百五十有余年の昔を偲び一詩を賦奠し菩提を弔った次第である。
-弔家祖赤松則尚公 家祖赤松則尚公を弔らう +   弔家祖赤松則尚公   家祖赤松則尚公を弔らう 
-鬼哭啾啾萬恨長   鬼哭啾啾萬恨長し + 鬼哭啾啾萬恨長   鬼哭啾啾萬恨長し 
-康正享徳夢茫茫   康正享徳の夢は茫茫たり + 康正享徳夢茫茫   康正享徳の夢は茫茫たり 
-赤松則尚自裁跡  赤松則尚の自裁の跡 + 赤松則尚自裁跡    赤松則尚の自裁の跡 
-往事追懐濁断腸  往事追懐して濁り断腸+ 往事追懐濁断腸    往事追懐して濁り断腸 
恰もよし平成元年四月二十三日、星霜五百四十余年を経て山名、赤松両軍子孫による和解供養慰霊祭の奉修といい、平成二年五月吉日両族末葉による供養塔の建立といい、往事を想起して喜びは限りないものがある。 恰もよし平成元年四月二十三日、星霜五百四十余年を経て山名、赤松両軍子孫による和解供養慰霊祭の奉修といい、平成二年五月吉日両族末葉による供養塔の建立といい、往事を想起して喜びは限りないものがある。
拙ない歌を献じ菩提を弔うものである。 拙ない歌を献じ菩提を弔うものである。
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