村端のお堂にしては、丸く加工された立派な柱を使っていること、また柱には多くの穴が開いていること(作り直している?)等から、幻の寺・報恩寺の材木を再利用したお堂ではないかという説もある。
按ずるに創建不詳と雖も天文年間、山本勘助晴幸武者修行中の工造と云う、或いは左甚五郎の工造とも古老の口碑あれども証拠とする處なし。また、或る説に葛畑村字神場の観音堂と同人の工造なりと云い伝う。
天正五年丑十月織田殿の隊長羽柴筑州、攻人諸方の寺々仏堂宇等悉く焼き拂わるると聞き及び、此の噂に村民共大いに驚き、村中総掛りにて取壊し、宮の奥谷に隠せしが、程なく僅かの勢にて来たりしを見れば羽柴殿には之れ無く、藤堂與右衛門、宮部善祥坊しばらく二百余騎の勢にて攻入れども堂は事無く、茲に因り元に如く建てる事能わずして、今に悉く堂の柱に穴ありと云う。
山本勘助、左甚五郎等の作という口伝えがあるが、証拠となるものは無い。
羽柴筑前守の但馬・中国攻めの際に、寺社等を焼き払うとの噂を信じて、村人がお堂を解体し隠したが、焼き払うようなことはされなかったので、その後、再び組み直したが元のようには上手く再建できなかった。柱に穴があるのはその為だ。
山名家と妙心寺の深い繋がりが見て取れます。それ故、江戸時代、領地内の妙心寺所縁の寺を菩提寺と定め、その後藩主の信仰する宗派に改宗させたことも有っても不思議ではないかと思えます。
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