山名氏は「源氏の中の「源氏」」と言える
山名氏は源頼朝の鎌倉幕府成立から、室町時代は侍所の長官を担う四職として、戦国の時代には一時、国を失うものの、江戸時代は交代寄合衆に列して12代に渡って江戸幕府に仕えて明治維新をむかえます。
山名氏は鎌倉・室町・江戸と三幕府に籍を置いた貴重な武家であり、武家政治の始まりと終わりを見届けた一族であるとも言えます。
山名氏の起こり
山名氏は、清和源氏の名流・新田義重(源義家の孫)の三男・義範が上州高崎の山名郷を分け与えられたことから、土地の名を取って「山名氏」と名乗ったことから始まる。年代は不詳であるが、氏神山名八幡宮の創建が平安末(1175年頃)であるから、それ以前から山名氏を名乗っていたことは確実と言える。
鎌倉山名氏
初代・山名義範は源頼朝(源義家の曾孫の子)の鎌倉挙兵の際、いち早く参陣し源平の戦いで数々の武功を挙げ、「平家追討源氏六人」や鎌倉幕府内で源姓を名乗ることが許された「御門葉」に名を連ね、幕府においては代々引付衆に就き、北條氏が数多くの源氏を排除する中、一族滅亡に追い込まれること無く幕府内の御家人として続いた。
室町山名氏
八代・山名時氏の頃、北條執権の専制に新田義貞・足利尊氏が反旗をひるがえす。新田の分家である山名だが、時氏からみて尊氏は従兄弟の子で当たるため、足利側に付き室町時代を迎える。
室町時代には三管四職の四職家の一つとなり、以降西国を中心に勢力を拡大させていく。時氏の代は西国5カ国の守護職となり、次代の師氏・時義の代で7カ国、氏清の代で12カ国半(一般には11カ国と言われる)の大太守となり、「六分一殿」と呼ばれる。
明徳の乱の後、山名の守護国は3カ国に減るが、持豊(宗全)の代には10カ国まで回復する。尚、西国を中心に各地に山名姓が広まっているのは、守護国が広範囲に渡っていた為、各地に守護代として一族の者を派遣し統治していた名残と思える。
戦国時代
宗全の代に起きたのが「応仁の乱」である。乱は京を中心に11年に及ぶ歳月続き、京の町は大いに荒廃し、乱に参加した守護大名は長く続く戦により、その勢力が疲弊し、下克上の世へと繋がっていく。
山名氏も毛利・尼子等の新興勢力の台頭により圧迫され、その支配下の国は但馬・因幡の2カ国まで減り、やがて豊臣軍の但馬・因幡攻めで豊臣の軍門に下ることとなる。
江戸時代
村岡山名
豊臣政権下では、因幡守護職であった山名豊国は秀吉の「お伽衆」として仕え、関ヶ原では東軍に付き、徳川幕府においても「お伽衆」として仕え、七美郡6700石の領地を得る。
江戸時代は但馬山名氏に代わり山名宗家として、大名待遇の旗本として存続し、その後、明治2年の石高見直しで1万1千石の大名と立藩、その後、明治維新を迎える。
最後の藩主であった義路は明治4年、廃藩置県により村岡藩主から村岡県知事に就任。同年、村岡県は豊岡県に合併後、東京に出て陸軍軍人。明治17年の華族令により男爵授爵、貴族院議員を歴任し、子孫は現在に至る。村岡山名で15代、山名氏歴代で32代。
但馬山名
出石の但馬守護職・祐豊の子、尭煕その子、尭政は豊臣政権下では秀吉の家臣として仕え、関ヶ原では西軍に付き、大阪夏の陣で尭政が没する。豊国は尭政の子、恒豊を養子に迎えることを徳川幕府に願い出るが許されず、代わりに祐豊の旧臣であり徳川幕臣となっていた清水正親の養子となり、後に山名に復姓する。出石山名は江戸時代は旗本として存続し、明治以降も現在まで営々と続いている。
山名一族会のサイト
山名一族の詳しいことは、下記サイトをご覧ください。
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