「私は無学でして・・・・・」教育が普及した今日ではあまり聞かない言葉だが、かつてはよくつかわれたものです。
「ほんまになあ、あなたほどの物知りなら、無学ちゅうてもええでしょうなあ」山寺の和尚さんが相槌を打ってます。とたんに、無学といったご当人がけげんな顔をすることになる・・・。お分かりでしょうか?お経には「学無学」という対語があるのです。
正しくは有学無学。「有学」とは『学コト有り』つまりまだまだ学ばねばならん無学もんのことであり、「無学」とは『学コト無シ』すなわち、道の蘊奥(うんのう)を極めた有識者のことであり、要するに無学とは・・・、なんだか話がややこしくなりました。
似たような意味で「往生」と言う言葉を考えて見ましょう。
「サラ金で首がまわらんし、女房は蒸発するし、本当に往生してしもた」誠にお気の毒でです。でも、そう簡単に往生してもらっては困るんです。
何故なら、その往生は偽物だからです。「往生」とは『往イテ生レル』、迷いや苦しみの世界から足を洗って、力強く再生の意気に燃えてもらってこそ、本当の「往生」なんです。
「山崩れで列車立ち往生」新聞の見出しによく使われますが、これもおかしいですね。昔、武蔵坊弁慶は衣川の館で主君義経公の自害される時間を稼ぐために、攻め寄せる幾万の軍勢をたった一人で支えたと言います。
寄せての征矢で全身が針鼠(はりねずみ)みたいになりなが、薙刀(なぎなた)をドンとついて立ちはだかっていました。やがて、あまりのことで恐る恐る近寄って見たものは、立ちながら息絶えた壮絶な弁慶の姿でした。主君を護る弁慶の忠節は正しく「往生」に値する評価を受けるべきでしょう。
「家も建てたし、墓も出来た、息子も出世したで一安心じゃ」これとても、その程度の「出世」や「安心」では心細い次第です。
「出世」とは『世ヲ出ル』ですから、世間から姿を消すことが本義なんですが、『世ニ出ル』と読んだから立身出世となった・・・。
これも戦の話ですが、織田方に囲まれた武田側の快川という和尚は「心頭ヲ滅却スレバ火モマタ涼シ」と有名な大安心(だいあんじん)の一句を残して、燃え盛る猛火の中で大往生をしているんですね。
夏目漱石の「草枕」にこんな一節が有りました。「石段をあがるなとなんでも逆様(さかさま)なんだから叶(かな)わねえ」
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