(2)『幻の寺』報恩寺
このように大きな使命を賜って発足した報恩寺ではありますが、以降近世に到るまでの二百五十年という長い間、どのようにしていたのか、何の記録も見当りません。
文化の後進地帯とされる七美の地でも僅かながら史書めいた文献があります。七美叢誌・田公退城 記・七美誌稿・七美史提要・但馬考などですが、そのどれにも報恩寺のことは片鱗すら載せていませ ん。ですから現に活躍中の地方史研究家各位もつい最近までこのことを全く知らずに過ごしてきたのです。
名 称 | ○○山(受潤カ)報恩寺 |
所 在 | 但馬国七美庄下方未国名地内 (現兵庫県美方郡香美町村岡区村岡川上地区高堂) |
本 寺 | 京都花園妙心寺微笑庵(みしょうあん) |
特 徴 | 妙心寺荘園七美庄管理 |
開 山 | 妙心寺二世授翁宗弼(じゅおうそうひつ )禅師 (微笑庵主( みしょうあんじゅ )) |
時 期 | 永和元年(一三七五)―寛永十九年(一六四二)の二六七年間 |
本 尊 | 禅定の釈迦如来像 |
妙心寺は花園上皇が禅界の巨匠関山慧玄(かんざんえげん)禅師に命じて貞和三年(一三七二)に御所を改め禅苑とされた格調高い名刹です。その第二世を継がれた授翁宗弼(じゅおうそうひつ)禅師は山内に設けた微笑庵(みしょうあん)に拠って妙心寺一山の経営に当たられました。余談ですが、この授翁宗弼禅師は『建武の中興』で後醍醐天皇の側近として功労著しい藤原藤房(万里小路藤房・までのこうじふじふさ)のことで、故あって出家遁世(しゅっけとんせい)し、慧玄に就いたとされています。禅僧であるよりも経営の才能が秀れていたかと思われます。