(10)悲運の駒姫と栄光の母磐代の君
〈特別寄稿〉秘話(歴史物語)ー悲運の駒姫と栄光の母磐代の君ー
村岡山名第十四代当主 山名晴彦
伯耆の国、注1打吹(うつぶき)城主、注2山名氏豊は注3吉川元春(きっかわもとはる)との戦い〔天正八年(一五八○)八月十三日〕に於いて無念の敗北を喫し、遂にその居城の打吹城を放棄し、再起を図るべく、部下数名の将兵とともに一族を頼って逃亡を続けたが、敵軍の探索は殊の外厳しく、遂に注4青谷荘、鳴滝村の山中に於いて、悲愴な最期を遂げ、これによりさしも一国の管領であった伯耆国山名氏は滅亡した(同、八月十五日)とされている。
ところが、これより先、氏豊は打吹城の落城を予期してその寸前にたった一人の愛娘を、予め懇意にしていた注5三明寺(さんみょうじ)近郊の農家に預け、その養育を託していたのである。そして、たまたまその農家は駒井姓を名乗っていたので、愛娘は人々から駒姫と呼はれるようになった。そしてその駒姫は長じるに及び世を忍ぶ為、殊更山名姓を名乗ることを避け、同郷の農家に嫁ぎ質素な生活に甘んじ、ひたすら討死した亡父や家臣の霊を慰めながら悲運の生涯を閉じたと言われている。
駒姫には娘があり、《りん》と名付けられていたが、さすがに血は争えぬもので、《りん》は生まれつき容貌殊の外美しく、又気高い気品を兼ね備え、更に英邁で理智に富んでいたので、当時の領主池田氏の家老、荒尾志摩守の家臣で倉吉に住む岩室(いわむろ)常右衛門宜休という武士に見染められた。しかるに当時の身分制度は特に厳しく、武士と百姓の娘との婚姻はご法度であった為、止むを得す常右衛門は武士を捨て、《りん》と共に京都に駆落ちしたのである。そして、当時有名な医師、馬陶賢の門下生となり、師の許で十余年の歳月をかけて医術を研鑽し、遂に医師として名をなすに至り、師より名前の一字を貰い受け、岩室宗賢と称するようになっていた。この間《りん》と宗賢との問には一人娘の《つる》が生誕(長じて《とめ》とも言う)しているが、これが後の世の《磐代》(いわしろ)の君である。
《つる》は十六才の時、父の岩室宗賢が医師として出仕していた禁裏御使番生駒守意の屋敷に行儀奉公に出たが、《つる》は生駒夫妻から実子の如く可愛がられ、行儀作法は勿論のこと、読書、書道、茶道、華道、料理、詩歌、絵画、舞踊等、女性としてのあらゆる教養を身につけ、稀に見る才媛としての誉れが高かった。たまたまこれが禁裏の女官、注6《長橋の局》の知るところとなり、特に乞われて《長橋の局》の屋敷に奉公することになった。
《長橋の局》は美貌と教養と理智に富んだ、《つる》を殊の外寵愛された。《つる》は《長橋の局》に奉仕することによって更に常識を広め、その上禁裏の作法、しきたり等をことごとく会得するようになり、《長橋の局》の信任は益々厚くなったと言われている。
当時、《長橋の局》の屋敷には注7中御門(なかみかど)天皇の皇女籌宮(かずのみや)成子内親王が度々遊びに来られ、《つる》の教養のある人柄と非凡な才能に魅せられ、すっかりお気に召されたが、籌宮が後に閑院宮典仁親王(かんいんのみやのりひと)の妃になられてからは、今度は宮家に参殿する身分になった。これは、《つる》が二十三才の時である。
閑院宮妃成子内親王はご病弱であった為か中々お子様かできなかった。そして、《つる》が二十七才の時に開院宮典仁親王から側室になるようお申し付けかあった。
《つる》はたとえ山名氏豊の末裔とはいえ身分の低い者が余りにも畏れ多いことなので固くご辞退申し上げたが、再三、再四のお申し付けがあったので、意を決し側室としてこ奉仕することになった。この時、《つる》は生駒守意の養女となって身分をととのえ宮家に参殿することになったが、宮家からは特別の思召しで注8《大江》(おおえ)の姓と《磐代》(いわしろ)という格調高い名を賜わっている。時に明和七年(一七七〇)のことである。
翌明和八年五月、閑院宮妃は病の為薨去、同年八月、《磐代》の君には目出度く第一王子ご出産、祐宮(さちのみや)と申し上げ、その後引続き注9寛宮(ひろのみや)をお生み申し上げている。
安永八年(一七七九)第百十八代後桃園天皇崩御、天皇にはお世継ぎの皇太子がおられなかったので注10皇室会議の結果、閑院宮の第一王子祐宮が皇位を継承することになり、翌安永九年(一七八○)、第百十九代の天皇として即位された。即ちこのお方が光格(こうかく)天皇である。
天皇は、御年僅か九才のご幼少であったので、閑院宮と関白太政大臣の藤原尚実郷がご後見申し上げているが、山名氏豊の末裔が天皇のご生母となったということは、山名氏一族として、これ正に栄光の極みと言わさるを得ない。
《磐代》の君は光格天皇ご即位のあと、閑院宮典仁親王と共に宮中に出仕、ご幼少の天皇のこ養育に専念したが、典仁親王薨去のあとは出家して蓮上院(れんじょういん)と称せられ、聖護院宮別邸て余生を送られた。文化九年(一八一二)逝去。六十九才であった。後世朝延から特旨を以て当時の臣下としては最高位の従一位が贈られたが、更に打吹公園内に磐代神社が建立され、神として祀られていることは案外世に知られていない。
光格天皇は日本の古典、漢書に精通、又書道を良くされ、儒学の精神に培われ、素朴で剛毅なご気性で稀に見る英邁なお方と承っている。ご在位三十七年で次の仁孝(にんこう)天皇に皇位を譲られたが、七〇才の天寿を全うされて、天保十一年(一八四〇)に崩御された。
この光格天皇のご体格と、ご気性が良く似ておられるのが、ご曽孫にあたる明冶天皇であると言われている。ちなみに明冶天皇のご幼少の頃の宮号は光格天皇の宮号と同じ祐宮(さちのみや)であった。
(全國山名一族会報・第三号より)