(9)禅高公神号勅許
天保六年(一八三五)時の帝、仁孝天皇より藩祖禅高公に対する神号(権現号)を下附されました。世に謂う神号には『権現』(ごんげん)と『明神』(みょうじん)の二つでありますね。豊臣秀吉さんが「豊国大明神」(ほうこくだいみょうじん)、徳川家康公が「東照大権現」(とうしょうだいごんげん)。
明神号は真言系、権現号は天台系ですが、これらは勝手に付けたのではなく、正当な手続きを経て、時の天皇から授与されるのです。もっとも後世になりますと、そんな決まりがあることも知らず「義民誰某(だれそれ)大明神」とか何かとで勝手に神号を使うことがありますが、それは別の話です。
で、この神号勅許の綸旨から私どもは何を読み取るできでしょうか。
◎何方から? 時の帝、仁孝天皇から。
◎誰に? (京都妙心寺)東林院住持→山名氏十代義問公に。
◎出願者は? 義問公→東林院→禁中へ。
これで綸旨拝領のルートは先ず間違っていないでしょう。
では、何故このような突飛な発想を義問公が起こされたのか。また、成功する見込みはお有りであったかどうか?舞台は一転して鳥取県倉吉市の打吹公園に変わります。
豊國禅高七味権現
豊國禅高七味権現事 天保六年九月七日 |
豊國禅高七味権現
豊國禅高七味権現の事 天保六年(一八三五)九月七日 |
伯耆の国の中心都市として知られた小京都の町並みを見下すこの公園は元々、伯耆山名が根拠地として築き上げた打吹城の跡地です。その公園の西寄りの一角に楚々として静まります小振りな神社がありましてね。社名を磐代神社、祭神は光格天皇御生母大江磐代君(おおえいわしろぎみ)となっていて、話は佳境に向かってきたようですから、ここからは野衲如きよりも、村岡山名氏宗家第十四世晴彦公に辯士交代と致しましょう。