(5)藩公菩提寺の格式
延享四年(一七四五)この年にはじめて村岡藩内における法雲寺の格式が定められました。
◎用人席出礼格
◎寺領百石
◎境内地千百八十坪
村岡藩が正式に立藩するのは明治太政官政府の時ですから、江戸時代は私称していたことになりますが、内外ともに〈万石大名格〉として容認されていますので、藩名を用います。
用人とは家老と共に君側(くんそく)に仕え諸事を差配する上級家臣の職名で、当藩の場合五家がこれに任じました。石高は百三十石から五十石まで。それに準ずるのですから、なかなかだったかの如くです。
例えばたまたま登城の時など、寺から陣屋まで五百メートル程しか離れておりませんが、やはり規定どおり、挾箱(はさみばこ)をかついだ小者(こもの)を従え、駕籠を用いたようです。
給与の百石ですが、大藩の場合ですと薄給になりましょうが、小規模な当藩ではこれで臣下の最高の給与です。
ではその百石高とはどれほどの経済価値をもつものか試算してみましょうか。
まず、単位が石ですからこれはお米の量のとこですね。一石の米とは四斗俵が二つ半。百石といえばその百倍になるが、俵の数でいえば二百五十俵、こりゃあたいそうな高給取りやと驚いていましたら、とんだ思い違いでした。
1石=1斗缶10缶分 約180リットル |
10石=1斗缶100缶分 約1800リットル分 |
100石=1斗缶1,000缶分 約18,000リットル分 |
正しくは、米百石を生産するの農地面積を指します。農業技術が今日ほども進んでいませんから、仮に一反(三百坪)当たり二・五石として、一町歩で二十五石、二町歩で五十石、四町歩で一〇〇石になります。こうした算定方法で実際に田地そのものを給される場合もあったようですが時代とともに簡易化して、江戸時代になると、これは帳面上の計算に過ぎなくなりました。
1歩・1坪 | 畳2条分(6尺(1.81m)平方) | 3.3㎡ |
1畝 | 30坪 | 33㎡ |
1反 | 10畝(300坪) | 990㎡ |
1町 | 10反 | 9900㎡ |
それはさておき、百石の禄高の実収といえば、
◎六公四民の割りで六〇石が藩、四〇石が受給者
◎藩財政へ協力名目で四割天引され、二十四石実支給
つまり、法雲寺百石は実際には二十四石となって、これだけは毎年間違いなく支給されておりますものの、実際の米価は年々に上昇しますから、寺院運営も並大抵ではなかったでしょう。(これに加えて仏餉田から収穫出来る十石程度と合わせて寺院を運営)