(2)矩豊公御逝去
この元禄四年(一六九一)といえば矩豊公もすでに七十一才の高齢です。普通ならばもっと早く引退して、悠々晩年を楽しまれるところですが、公は壮令の頃より嗣子運が薄く、何人か養子を迎えられるも早世が続き、この時点でもまだ後嗣が決まっておりません。
元禄七年になってようやく福島正則の曾孫を迎えることが出来て一安心、とはいうもののまだ後嗣は幼少ですから、早速世代を譲る訳には参りません。やはり老駆を押して登城し、交代寄合席最長老の重責を担っておられました。
時の将軍綱吉公は矩豊公の精勤ぶりを嘉(よみ)して特に「奥の間詰」として身近に控えさせて、時にお話相手をつとめる閑職に就けられました。そして、事あるごとにお手許の御用度品あれこれを手ずからお下げ渡しになっています。矩豊公にとっては、この将軍家の手厚い思し召しが余程ありがたかったとみえ、『山名家譜』に洩れなく書き留めておられます。
元禄四年 | 一六九一 | 御印籠・八丈嶋五反 |
五年 | 一六九二 | 御菓子・御羽織・御菓子・赤裏御袷 葵紋帷子・戻子肩衣五巻・御単物一ツ 御帷子二ツ・御菓子・明石縮五反 人参壱封・将軍直筆「孟子」像・同図像絵讃 |
かくして元禄十一年(一六九八)八月廿七日、七十九才の生涯を江府邸で終えられ、市ヶ谷自証院に葬られました。国許村岡では当然、公御自身が治定された壺谷御廟所に、所定の規格に従った〈大名墓〉が設けられています。(四十八ページの写真を参照下さい。)