三の段、天台宗法雲寺の時代
(1)法雲寺再中興
元禄四年(一六九一)矩豊公は法雲寺を天台宗に改宗される旨を発令されました。(下図・『祠堂状』参照)
但州七味郡村岡縣法雲寺(考(亡父)豊政は法雲院殿と号す)は父祖祠堂の地なり。 従五位下行伊豆守源矩豊 元禄四竜次庚辛未冬十月日 |
当然、住職も新しく東叡山寛永寺から派遣された堯仙(ぎょうせん)法印です。
余談ですが、仏教では宗旨によって僧侶方への敬称が異なりますね。法印(ほういん)・和尚(お(か)しょう)・禅師(ぜんじ)・上人(しょうにん)・阿闍梨(あじゃり)など様々ですから、相手によって使い分けねばなりません。「お坊さん」と言えばどの宗旨にも通じますが、ボンサン・坊主などの蔑称を連想させますし、とかくややこしいものです。「お寺さん」ぐらいが無難なところでしょうか。
さて、さてここに掲げた文書(下図・『堯仙辞令』参照)は法雲寺再中興第一世堯仙法雲の住職辞令です。分厚い上質の檀紙と青蓮院流(お家流とも)の重厚な書体が宮様の権威を象徴しているかの如くです。
(大意) 但馬国村岡法雲寺 天台宗弘通の霊場 であるから、当住堯仙に限り木蘭色衣着用を許す。然れば令法久住、領主安全の懇祈に怠慢あるべきからずと、一品宮が思し召されている旨を下知する。 |
この色衣とは分限(ぶんげん)に応じて定められた色合いの法衣のことで、天台宗では緋・紫・松襲(まつかさね)・玉虫・木蘭の別があります。本来は当人の僧階によって変動するものですが、この頃は寺に付いて決まったていたようです。いずれにしても木蘭色衣とは赤がかった香色ですから宗門の中では下位に属する寺院ということなります。天台宗に属して日浅く僻遠の地にあって財政的にも十分ではないなどからの査定でしょうか。
このお下知(げち)を下された一品宮(いっぽんのみや)とは正しくは「輪王寺准三宮一品親王」のことで、一般には「上野の宮さま」として知られております。宗門からすれば天台宗総本山比叡山延暦寺の座主猊下(ざすげいか)であり、日光・上野両輪王寺門跡を兼帯される形になります。ご自坊は青蓮院や妙法院で役目終わればそこへお帰りになります。
なんで、法雲寺とは関係の無い話を持ち出したかと言いますすと、無関係どころか大いに関係が有るからです。まあお聞きくださいな。
時の宮様は霊元天皇第六皇子で妙法院から天台宗第百九十一世座主に昇られた堯延法親王のことです。宮様以前にも妙法院からお入りになりました宮様の何方かは『尭』の字を継承されていることからして、この字を許されることは余程宮様の信任が厚くなければなりません。
法雲寺の再中興初代尭仙法印もそのお一人でしょうが、木蘭色衣相当の低い寺格には過ぎたお方と申すべきでしょう。この破格の人事はさきの日蓮宗当時宗門きって名僧日映上人が終始撫育された寺であり、大檀越が名門山名氏であるところから、それに倣って寛永寺当局が配慮したものと思われます。
なお法雲寺の場合、寛永寺総本山と末寺との間にはワンクッションが置かれまして、これが市ヶ谷自証院です。このお寺は徳川三代将軍家光公のご息女自証院殿追善のために新たに開創された名門として有名です。そうしたことから、碑文谷法華寺に祀られていた山名二代公ご夫婦のお墓も自証院に移して奉祀されました。
その頃、幕府は大名家に江戸居住を義務づけていますので三百諸侯と言われる各大名は府内に菩提寺を求め自身や家族の追善回向を委ねました。もっとも当主の正式な墓所は本貫の地である国表の菩提寺に造り、それぞれ規準に従って巨大な墓碑を建立します。山名家も同様で、三代矩豊公から幕末までの八代は幅七〇㎝角・高二〇〇㎝の偉容を陣屋奥の壺谷御廟所にズラリと並べて奉安しておりますま。
また余談ですが、この御廟所を町教育委員が町文化財として認定しました。郷土の歴史を護り永世に伝えるいう結構な趣旨ですが、現状の変更は一切認めないということで、俗な言い方ですが、「金は出さないが、口は出す」ですか。イヤ失礼。