(8)日蓮宗受難と天台宗改宗
この日蓮宗は元々宗祖日蓮上人の独特な宗教観に依って創立した一宗ですから、他の諸宗とは随分宗風が違います。
その一つが「不受不施」(ふじゅふせ)という考え方です。これは法華経を信じない者には法を施さず、財を受けないという非常に厳しい掟です。上人はまた、当時の各宗に対して「念仏無限、禅天魔、真言亡国、律国賊」と批判し、これらを折伏(しゃくぶく)して自宗への転入をすすめました。
凡(およ)そ宗教なるものは、教祖の得た妙境に他者を誘引して集団を作り、それの拡大を願って、己が信条を説き弘めるのが常ですから、立教開宗と布教伝道は不可分の関係です。
日蓮宗のこの「不受不施」の精神は布教者の大命題となって後世まで強く影響しています。
文禄四年(一五九五)豊臣秀吉発願の方広寺大仏殿落成の際に仏教各宗の出仕を求めて「千僧供養」なる法要が営弁されました。祖師の遺訓からすれば「不受不施」ですから、関白と云えども未入信ゆえ、その招きに応ずる訳にはいきません。
といって、拒絶すれば国内最高権力者に盾突くことになりますから、どのような災難を蒙るやも知れず、宗内は二つに分かれて論争を繰り返しました。結局は、これに応じた「受布施」の面々は無事でしたが、不参加の妙覚寺日奥上人は寺を退去させられました。この大仏供養の事件は、その後ますます熱を帯び、宗門を二分する抗争を引き起こすことになります。
慶長五年 | 一五九九 | 大阪対論 | 日奥は自説を曲げず対馬へ流罪。 |
十三年 | 一六〇八 | 慶長対論 | 浄土宗廓山に敗れる。 |
十四年 | 一六〇九 | 慶長法難 | 敗者日経鼻耳を削がれる。 |
十七年 | 一六一六 | 日奥赦免 | 妙覚寺に復帰。 |
寛永七年 | 一六三〇 | 身池対論 | 不受不施派敗れる。 |
寛文九年 | 一六六九 | 幕府、土水供養令発布。 幕府、不受不施派等請禁止令発布。 |
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元禄四年 | 一六九一 | 幕府、悲田宗(不受不施派の別名)禁止と 悲田宗の受布施派への転入か、他宗への改宗を促す。 |
こうした対立が繰り返すごとに、幕府からの圧力が強くなってきます。幕府、宗教行政の狙うところは民衆に横の繋がりを持たせない為でしょう。先の《一向一揆》や《島原の乱》にしても、個々には弱い民衆が団結すれば思いがけない威力を発揮しますから、為政者としては未然に防ぐべく万全を期さねばなりません。
では、その頃、法雲寺の中興開山日映上人はどうしていらっしゃったでしょうか。幕府の申渡状から窺ってみましょう。
申渡之覚 小 湊 誕生寺 碑文谷 法華寺 谷 中 感応寺 右三ヶ寺事、先年証文仕候処に、今不受不施の邪義ヲ相立 悲田宗と号、宗門をひろめ候段不届ニ候、向後悲田不受不 施を改候て、受布施に罷成候か、又は他宗ニ罷成候共其段ハ 可任所存ニ候、自今已後悲田堅停止被仰付候間、急度相 改可申候、若於違背者、可為曲事者也、 未 四月二十八日 |
(大意) 右の三ヶ寺は、先年証文をささげたのに今なお不受不施の邪義を立て、悲田宗を号してこれを弘めておるが、不届きなことである。 これより以後、悲田・不受不施を改めて受不施になるとも、または他宗ニなるとも、それは心のままである。 今後、悲田派は堅く停止の命が下ったので、必ず改むべきである。 もし、これに違背すれば、それは心得違いというものである。 |
この詰問書に対する三上人の返事は次の通りです。
今度悲田不受不施御停止に付き拙僧共義 天台に改宗仕る可きの由御評定所において申し上 げ候ところ、三ヶ寺の義は元来法華の寺地に候間 寺は日蓮宗に御付けあそばさるべく候、しかしなが ら拙僧共受布施にまかりなるべく候わば、そのまま さしおかるべく候間、料簡つかまつり可申上之旨かさねて これを仰せわたされ御慈悲のだん、有がたくぞんじたて まつり、そうだんの上受布施に改派仕る可く候、しかれ共 末寺にまかり成(なり)候へば寺の格軽くなり可申義歎舗(なげかしく) ぞんじたてまつり候間、受布施の触下(ふれした)に仰付られたく候やう ねがひたてまつり候… ― 以下略― 元禄四年未五月三日 感応寺 日遼 法華寺 日附 誕生寺 日映 寺社 御奉行所 (文中一部分をかな書きから漢字に直しました) |
※この時点では、日映上人は小湊誕生寺(日蓮宗大本山)貫首の座に就かれている事が分かります。
こうして一応は収まったようですが、硬骨漢揃いの不受不施の面々はなかなかに転向の実を示しません。業を煮やした幕府は法華寺日附・感応寺日遼等八ヶ寺の上人を数十人の信者と共に伊豆諸島への流罪に処しました。この弾圧は長く幕府の定法となって受け継がれ、明治の太政官政府もこれを受け継いでおります。
元禄十一年(一六九八)法華寺は円融寺に、感応寺は天王寺と名を改めて共に天台宗となり、この大騒動は終息を見たのです。
法雲寺は日映上人・矩豊公によって碑文谷・法華寺末寺として中興した訳ですので当然、〈不受不施〉の寺であった事でしょう。幕府と不受不施派の対立が深まる一方、矩豊公のお役目は〈交代寄合〉という将軍お側のお立場です。不受不施の各寺院だけで無く、矩豊公自身の法華信仰も大きな転機を迎えます。