(7)梵鐘鋳造と銘文
貞享四年(一六八七)宿願の梵鐘が出来ました。元々の梵鐘は観音堂にあって、今もそれなりの使命を果たしているのですから、それを降ろしてくる訳には参りません。
そこで、三世住職の日清上人(何時、日映上人と代替わりされたかは不明)は新しく法雲寺境内に梵鐘施設を造るべく発願されました。
普通ですと藩公菩提寺というからには願書一通で事が成るのでしょうが、上人は敢えて一紙半銭(僅かな譬え)の募財から始められております。領内に住まう老若のすべての真心が込められての大鐘でありたいと願われたからでしょう。
仏教ではこの〈布施〉という行為を〈檀那波羅密〉と言って非常に重視しております。そして布施行を実践する場所や人の事を〈檀那寺〉や〈檀徒〉としました。それが段々日常化して〈大旦那や若旦那〉となり、さてはパトロンを意味する〈丹さん〉にまで成り下がりましたがねえ。
この日清上人の純粋な発願をよく理解し強く応援されたのが、城代三上氏の夫人『不変日如大姉』です。三上氏は元来、因幡山名氏の一将で、禅高公とは従兄弟の間柄です。岩井の三上城主であるところから三上氏を称しました。後年、因幡山名氏没落で野に降っておりましたが、旧主禅高公の復活で但馬七美郷に招かれ、城代の役目を担っています。家禄五百石。この小藩では連枝(れんし・藩主の兄弟) でも百石から二百石ですのに桁外れの高額から三上氏の存在理由が推測できましょう。その夫人、日如大姉が率先して大鐘鋳造に乗り出したのです。とは言えご婦人のことですから、文字通り一紙半銭 ―なかには銅製の器物や飾り金具など― ですから、必要額には程遠い成果だったでしょうが、そうなると藩としても補充する名分がたちます。残りは公費を充てる事がスンナリと決まりました。
次は大鐘の銘文です。普通ですと願主である日清上人の受け持ちですが、上人はその任を先に引退された二世日映上人に委(ゆだ)ねておられます。
これは、法雲寺中興開山の日映上人が法華寺開山日源上人を法雲寺第一世として勧請されたと同様に梵鐘鋳造の大功を師の日映上人に回向されたものと見るべきでしょう。
―― 日清ハ銘ヲ予ニ請イ 拒ムコト能ワズ其ノ求メニ応ウ――
その頃日映上人は江戸谷中の感応寺に住しておられたようです。
―― 四山ノ嗣法日映ハ 東武ノ安楽山ニオイテコレヲ書ク――
四山とは、どことどこなのか、さっぱり分かりませんので、行き詰まっていましたが、円融寺様から戴いた寺史により、日映上人は碑文谷法華寺・谷中感応寺・野呂妙興寺・小湊誕生寺という何れも大本山級の大寺であることが分かりました。
―――― 法雲寺ハ、従来臨済派ノ禅苑ナリ・・・ 何人カ中ゴロニ衣ヲ我家に換エ(日)源師の余流ヲ挹(ク)ム ――――
(右文の波線部分二カ所が円融寺様の寺史で解明しました。委しくは「終の段」のところで申し上げます)