202_山名氏菩提寺法雲寺

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(2)山名氏菩提寺法雲寺

菩提寺とはもともと信者の菩提(さとり)を促す為の精舎でしたが、だんだんに変化してきて施主家先祖代々の冥福を祈る為、お位牌を祀り供養を捧げる寺のことを指すようになりました。ですから、施主の居住する場所が代わると菩提寺も代わります。中には移動先まで菩提寺を移転する施主も有りますが、これは例外としましょう。
山名氏にしても、一族の原点である上州山名庄には光台寺という菩提寺が有り、六分一殿で知られる時氏公は伯耆倉吉の山名寺(さんみょうじ)に。本拠を但馬国に定めますと、円通寺や宗鏡寺、応仁の乱の宗全公は京都東山の南禅寺にと各地に菩提寺が出来ます。
村岡山名氏の場合では、初代禅高公が晩年京都で隠栖された時に創立された前記の東林院がそれになります。二代の豊政公御夫妻は江戸碑文谷の法華寺です。三代矩豊公が就封の頃、幕府は三百諸侯に対して参勤交代の制度を発布。それ以降諸侯は国表を本貫の地としましたから、菩提寺もその地に設けねばなりません。

また、元和以降の厳しい宗教政策によって新寺院建立や安易な寺号・院号の変更は戒められており、そのことも考慮しなければなりません。七美郡六千七百石の領主山名家も菩提寺に相応しい寺を領内に求めましたが、その多くは村の辻堂ほどの小寺(こでら)ですので役に立ちません。ただ一ヶ寺相当な寺観をもつ臨済宗寺院が有りまして、本山花園妙心寺直末(じきまつ)を誇っております。それが報恩寺です。
矩豊公は熱烈な法華経信奉者ですから菩提寺も日蓮宗でなければならず、そのためには報恩寺を改宗させねばなりません。
領主の強権を発動すれば容易に出来ましょうが、無理押しは出来ません。先代禅高公が築かれた妙心寺との友好関係や東林院笠翁和尚の面目をそこねることになります。
おそらく衝(しょう)に当たられた人は随分苦労されたことでしょうが、幸いにしてこの入部以前に合意を見ました。そして迎えたのが、この閉山引継式でした。


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2020年4月12日