二の段、日蓮宗法雲寺の時代
名 称 | 受潤山 法雲寺 |
所 在 | 但馬国七美郡村岡町本町地内 |
本 寺 | 江戸碑文谷法華寺(現・天台宗円融寺) |
特 徴 | 七美郡領主(幕府交代寄合衆山名氏)菩提寺 |
開 山 | 法華寺第十六世日映上人(勧請開山は法雲寺初代日源上人)* |
時 期 | 寛永十九年年(一六四二)―元禄四年(一六九一)までの四十九年間 |
本 尊 | 禅定釈迦如来 |
*法華寺十六世・日映は、報恩寺を改宗し法雲寺を開くにあたり、法雲寺第一世の名を日映が信奉する法華寺一世の日源に冠して自身は法雲寺第二世と称した。
(1)山名氏について
はじめに山名氏の事について少し触れておきます。前章で言いましたように但馬国は室町幕府の初期以降守護大名山名氏の本拠で来たが、近世当初の東西対立で織田・豊臣勢に屈し家名断絶の憂き目を見ました。
この悲運を挽回したのが、山名分国因幡の守護山名豊国(禅高)公で、公は毛利圏の鳥取城を棄てて豊臣の傘下に入り家名継続に成功します。そして秀吉・家康・秀忠の三代に御咄衆(おはなししゅう)として仕え、七美郡一円(六、七〇〇石)を賜り准三位(じゅさんみ)の格式を守り伝えました。
その禅高(豊国)公が晩年になって京洛に居を構え、連歌や茶道などを通じて公家や名刹大寺と親交を結びます。慶長十年(一六〇五)には妙心寺山内に新しく東林院なる一院を建立して己が塔所としましたが、これなどは余程の地位や名声・財力が揃わねば出来ぬ壮挙と言わねばなりません。ひとつには領地の七美庄内に妙心寺直末の報恩寺があるという縁も有ってか、とにかく山名氏と妙心寺の密接な友好関係は近世は勿論、明治の近代まで続いております。