(3)元和の受難
報恩寺開山から二世紀ちかく経ち時代は近世に入りました。慶長八年(一六〇三)徳川幕府が成立しました。幕府は国内の平静を保つために既成の権力すべてを圧迫し、無力化をはかります。
慶長十八年 | 一六一三 | 勅許紫衣之法度(はっと) |
元和元年 | 一六一五 | 禁中公家法度 |
大徳寺妙心寺法度(諸宗諸大寺へも) | ||
八年 | 一六二二 | 新寺建立の禁止 |
寛永四年 | 一六二七 | 幕府の同意なき綸旨は無効と宣言 |
五年 | 一六二八 | 大徳寺沢庵、妙心寺単伝士印等抗議書提出 |
六年 | 一六二九 | 沢庵は出羽上山へ、単伝も出羽由利へ配流 |
七年 | 一六三〇 | 後水尾天皇退位 |
九年 | 一六三二 | 沢庵、単伝等赦免 |
これら一連の強権発動によって、幕法が綸旨(りんじ・天皇のお言葉)よりも重いことを世に周知徹底させたのですから、たまったものではありません。やむなく公家や諸大寺は遵法を誓い恭順の実を示す訳です。
その頃、ここ七美郡の地では臨済宗寺院が軒並みに改宗か廃止と云う苛酷な扱い受けました。『七美誌考』の記事を拝借しますと、次の通りです。
七美庄下方 | 薬師寺 | 天正の兵火に罹災、厳浄寺境内へ移転 |
兎塚庄口大谷村 | 観音寺 | 楞巌寺末、明暦年中に廃す |
兎塚庄黒田村 | 神照寺 | 元和四年、臨済宗より曹洞宗に改宗 |
兎塚庄和池村 | 東楽寺 | 妙心寺末、天正の兵火に罹災、元和四年廃寺 |
蓮華寺 | 東楽寺末、元和四年廃寺 | |
阿弥陀寺 | 〃 〃 | |
宗福寺 | 〃 〃 | |
中ノ坊治長院 | 〃 〃 | |
上ノ坊具足軒 | 〃 〃 | |
具足軒 | 〃 〃 | |
文珠寺 | 〃 〃 | |
安養寺 | 臨済宗、元和四年真言宗に改宗 | |
兎塚庄大谷村 | 観音寺 | 臨済宗、元和四年修験となる |
熊次庄外野村 | 禅林寺 | 臨済宗大明寺末、元和四年曹洞宗改宗 |
小代庄石寺村 | 阿弥陀寺 | 臨済宗大明寺末、天文九年山崩れで廃寺 |
小代庄大谷村 | 安明寺 | 臨済宗、元和四年修験となる |
小代庄居望村 | 安養寺 | 臨済宗大明寺末、慶長六年真言宗改宗 |
小代庄秋岡村 | 竜泉寺 | 臨済宗、元和四年曹洞宗改宗 |
射添庄原村 | 東仙寺 | 臨済宗、元和四年廃寺 |
この狭小な七美郡という山間地帯で十九ヶ寺が廃絶または改宗してたのですから、徳川幕府の宗教政策が如何に強烈であったかが良く窺えましょう。幕府は民衆が繋がる事をもっとも怖れていました。個々には無力な民衆でも、横の者同士が手をとりあえば百・千・万と無限に団結することが出来ます。これは為政者にとって大きな脅威です。近世初に各地で勃発した一向一揆の苦い経験は幕閣の骨身に徹しています。この時期、小集落単位で簇出(そうしゅつ)した妙心寺派の小寺院に幕府は不安を感じたでしょうか。
新寺建立禁止の法度(はっと)を出すとともに近々にできた寺も廃寺か、改宗するよう各宗の本山に指示したかと思われます。妙心寺でも一山をあげて対応策を練りました。甲論乙駁、なかなかに決着しませんでしたが結極は新設の小寺院を除去する穏健策を選びました。それが前掲の一覧表です。
紫衣事件では綸旨を無視するような法度に強く抗議した大徳寺沢庵・妙心寺単伝等を出羽の国に流謫するなど、手厳しい処置がとられました。(三年後には赦免されます)
こうした一連の臨済宗弾圧を見た民衆は都鄙(とひ)を問わず幕権の強烈さを感じたことでしょう。また、それが幕府の狙いであった訳です。