(2)『幻の寺』報恩寺
このように大きな使命を賜って発足した報恩寺ではありますが、以降近世に到るまでの二百五十年という長い間、どのようにしていたのか、何の記録も見当りません。
文化の後進地帯とされる七美の地でも僅かながら史書めいた文献があります。七美叢誌・田公退城 記・七美誌稿・七美史提要・但馬考などですが、そのどれにも報恩寺のことは片鱗すら載せていませ ん。ですから現に活躍中の地方史研究家各位もつい最近までこのことを全く知らずに過ごしてきたのです。
これは内緒話ですが昭和末年の頃、妙心寺開山六百年遠忌に際して、授翁禅師由縁の報恩寺を調査する為に一宗の当局や大学の先生方が七美庄(現香美町村岡区)へ来られましてね。応接に当たった 村岡教育委員会にとっては〈寝耳に水〉のような話ですから、案内どころかかえって報恩寺なる寺のイロハから教えて貰うというとんだハプニングが起きたとか。お陰でその頃編集中だった『村岡町誌』 に〈幻の寺〉という一項目を付加することができました。前掲の文書はそのときの収穫です。
そして、町誌では『宗弼の報恩寺は彼の願望にもかかわらず「勤行退転」し、ついに「器用の住持なく微笑庵 主も点検なく〈幻の寺〉となった。』(村岡町史上巻二一三頁)と締めくくっています。
なるほど〈幻の寺〉とは良く言ったものです。しかし、考えてごらんなさい。薄っぺらな文書やち っぽけな遺品類ならともかく、広い敷地や大きな建物を持つ寺院がそう簡単に雲散霧消する訳はないでしょう。もし何らかの変事で消滅したのなら、前掲の史書類に記録が残っているはずです。しかし、それがないということは史書制作当時、現に存在していたからではないでしょうか。
それはともかく、町史の方々はその後〈幻の寺〉の追跡調査に掛かられてもよろしかろうに、何の動きも見せておりません。この村岡にとっては調べる程の必要性がないからも知れませんが、ちょっとがっかりしましてね。では私がやってみようと思い立ったものです。
まず報恩寺のあった場所を知ることが第一だと考えました。妙心寺文書でいう「七美庄下方末国名」がどこを指すのか?、分かればよろしいのですが、名主職の交代などで土地の呼び名は変わるものですから、古文書をいくら調べても埒(らち)があきません。
「そうだそうだ。(報恩寺が法雲寺の前身とするならば、)この法雲寺がスッポリはいる場所を見つけたら・・・」今の法雲寺は昔からの建築用式を伝えています。間口十五間奥行六間として九十坪(百八十畳敷)、それに周囲の空閑地を加えれば四~五反(一五〇〇坪)の平地が必要です。
しかし、村岡周辺で報恩寺が有ったであろう場所を想像するのですが、「ここだ!」と納得がいく場所が思い浮かびません。
平坦地に乏しい村岡では学校の運動場や田んぼ以外は、法雲寺の飛地境内で有る観音山の墓地がある程度です。この観音山ですが、地域の墓地となったのは明治以降のことで、江戸時代は村岡山名三代・矩豊公奉納の観音様を祀る観音堂の他には法雲寺歴代と藩侯の親戚筋の墓が僅かに並ぶ法雲寺にとって大切な場所であったようです。
では、江戸時代より前の時代に観音山には何が有り、その土地・境内地の継承が脈々として現在の法雲寺へと何故続いているか?
今有る多くの寺院が、江戸時代初期に古い寺院を再興して現在に至っていることを考えると、(報恩寺かどうかは別にして・・・)「観音山には法雲寺の前身のお寺が有ったから」と、考えるのが一番自然で有るように思えるのですが、如何でしょうか?
そこで墓地に立って、頭の中で明治以降のお墓をどかして、本堂や開山堂・仁王門・鐘楼などを思い描いてみました。するとどうでしょう。諸堂がみなピッタリと収まるではありませんか。それとまた、墓地として好条件の中央部分は藩の上級家臣と御用達の旦那方が広々と占有していましてね。これなども報恩寺跡地の利用権の強さを物語っているのかのようでした。
さあ、こうして報恩寺創設の場所がほぼ判明しました。次に考えねばならないのは、何故この寺のことが七美の歴史に名を残すことなく〈幻の寺〉になったかということです。思いますのに、報恩寺 が出来た時、七美庄の住民たちは皆大喜びだったでしょう。
「妙心寺チュウ京都一番のお寺から偉い禅師さんが来(き)んさるげ~な。これでもう、あの年寄り尼さんに拝んでもらんでもええとは、ナントマア、ありがたいことではあるまいか」
里人の何人かが打ちそろって報恩寺の門くぐり、一座の回向を願い出たとしませんか。返ってきた 言葉はこうでした。
「この寺はノオ。妙心寺の荘園を管理するための寺でナ。田んぼの崩れや水路の修理、作柄の出来不出来などの相談なら聞いてあげるが・・・。それとも座禅でもシッカリ組んでみるか。やるんだったら 本堂へあがりなされ」
思いがけぬ返事にびっくり里人は帰ってきて皆に告げました。
「あそこは寺であっても寺ではないぞ。まるでお役所そっくりじゃ」
この噂はたちまちのうちに庄内に拡がりました。それを喜んだのは当時あちこちの村に出来つつあった辻堂のような寺々で、「われらもひとつ報恩寺さんのお袖にすがって、下寺に組み入れてもらおうではないか。すりゃあ箔も付こうし、寺にも重みが出てこよう」
それやこれやで暫くは噂話でにぎやかでしたが、報恩寺とは交流がなくなってしまいました。
一方、この荘園制という全国的な制度も、この頃から大きく変化してきました。始めの内は荘園領主の地位や名声で荘園の安泰を保証出来ましたが、実力(武力)第一の風潮が強まれば強まるほど荘園が蝕まれます。妙心寺荘園となった七美庄も二~三十年経った明徳のころには姿を消してしまったかの如くです。七美庄のある但馬西北部一帯は有力国人田公(たぎみ)氏の傘下に組み込まれています。それで荘園管理の任を失った報恩寺は〈幻の寺〉となって消え去った。と『村岡町誌』は云うのですが、果たしてどうでしょうか。
たしかに荘園を失うことは大きな打撃でしょうが、それだけで、臨済禅の大本山から選ばれて派遣された気鋭の禅師が寺を捨てて逃げ出すなどは普通では考えられませんよ。
近々の例を挙げてみます。さきの太平洋戦争が終わった後の昭和二十三年のことです。『農地解放』という大嵐が全国を吹きまくって、地主階級から田圃をゴッソリ取り上げて小作人の所有にして仕舞いました。もっとも雀の涙ほどの補償金は出ましたが焼け石に水ですわナ。農村地帯にある幾万かの寺院はそれぞれ仏餉田(ぶつしょうでん)という寺院運営のための農地を持っていましたが、一片の法令ですべてが零、どこのお寺も、言語に絶する苦境に立ちました。しかし、だからといって寺を捨てたり潰したりしたという話は聞いたことがありません。皆それぞれに工夫をし、努力を重ねて持ちこたえましたよ。
ついでですから今ひとつ。これも昭和末年の新しい事例ですからお聞き下さいな。私の住んでいる村岡町(現、香美町)と西隣の浜坂町(現、新温泉町)の境目に〈九斗山〉(くとやま)という海抜千メートル近い山がありましてね。頂上近い高原に京都洛北から安泰寺さんという曹洞宗のお寺が丸ごと引っ越してこられました。といえばもうお分かりの方もいらっしゃいましょが、〈宿無し興道〉と畏敬された世界的な禅者沢木興道老師がいつも足溜りにしていらっしゃった安泰寺さんです。
その頃は国中が戦後の復興を手始めに更には経済立国を目指してやみくもに働きましたねぇ。おかげで世界有数の経済大国となることができましたが、反面失った美点も少なくはありません。レジャー産業とか観光産業などが抬頭してきて、京都の街などは格好の標的にされてしまいました。森厳幽邃を旨とする神社や寺院も押し寄せる団体客の靴音にかき乱されて、沈思黙考、只管打坐(しかんたざ)などできなくなったのです。安泰寺さんの大英断はまさに〈頂門の一針〉(ちょうもんのいっしん)ですわねえ。
とは云え、人跡稀な山奥に寺ごと移転するなど並大抵の苦労ではないでしょう。最奥の久斗山集落迄はどうにか車が入りますが、そこから山上の高原へは細々とした杣道一本だけ。まず道つくりから始めねばなりません。
大量の資材を運び込む仕事ですから車は不可欠です。当然道路工事は地元の業者に発注されるものと期待していましたら、ナント安泰寺さんの方でブルドーザーやダンプカーなどの重機類を運び込まれたそうで。もちろん操作する技術者も僧堂の一員ですわナ。何しろ世界的に知られた安泰寺さんですから入門した雲水や居士も前身がまちまちで、思いがけない特技を持った人が居ても不思議ではありませんが・・・。
このうようにして安泰寺さんは九斗の山中に桃源境ともいうべき禅道場を開かれたのです。
さて・・・。話を元に戻しましょう。村岡町誌は、荘園を失った報恩寺を「寺に器用の住持がなくて、幻の寺にしました」と決めつけていますが、お寺というものはそう簡単に無くならないものだというために二つの事例をあげたんでしたね。
私はこう主張したいのです。「これで裸一貫・人間本来の〈無〉に立ち戻ったんだ。あとは自ら耕し自ら作り清貧を愛し弁道に勤(いそし)むのみ」
幸いなことに寺の下に拡がる川上田圃のうち、一町歩(三千坪)ばかりは報恩寺の仏餉田になっています。専業農家二戸がなり立つ広さですから、ちょうど手頃な新財源になります。早速に袈裟を脱いで鍬を担(かつ)いだ能化(師僧)を先頭に弟子僧たちが田圃におり立ちました。
こうして新生報恩寺はささやかながらも禅本来の面目を伝える道場として再生したかと思われるのです。もっとも雲水養成の専門僧堂ではありませんが、この寺なりの禅風が近世初頭までうけつがれたかのごとくです。