一の段、臨済宗報恩寺の時代
名 称 | ○○山(受潤カ)報恩寺 |
所 在 | 但馬国七美庄下方未国名地内 (現兵庫県美方郡香美町村岡区村岡川上地区高堂) |
本 寺 | 京都花園妙心寺微笑庵(みしょうあん) |
特 徴 | 妙心寺荘園七美庄管理 |
開 山 | 妙心寺二世授翁宗弼(じゅおうそうひつ )禅師 (微笑庵主( みしょうあんじゅ )) |
時 期 | 永和元年(一三七五)―寛永十九年(一六四二)の二六七年間 |
本 尊 | 禅定の釈迦如来像 |
(1)臨済宗報恩寺開山
妙心寺は花園上皇が禅界の巨匠関山慧玄(かんざんえげん)禅師に命じて貞和三年(一三七二)に御所を改め禅苑とされた格調高い名刹です。その第二世を継がれた授翁宗弼(じゅおうそうひつ)禅師は山内に設けた微笑庵(みしょうあん)に拠って妙心寺一山の経営に当たられました。余談ですが、この授翁宗弼禅師は『建武の中興』で後醍醐天皇の側近として功労著しい藤原藤房(万里小路藤房・までのこうじふじふさ)のことで、故あって出家遁世(しゅっけとんせい)し、慧玄に就いたとされています。禅僧であるよりも経営の才能が秀れていたかと思われます。
その頃、但馬国七美(しつみ)庄から妙心寺へ荘園の寄進が続きました。貞治三年(一三六四)から永和元年(一三七五)までの十年足らずの間に庄内の下方(しもがた)から上方(かみかた)にかけてのほぼ全域が妙心寺領になっています。その経済力(産米力)はどれほどでしょうか。往時のことは何の記録もありませんが、いちばん古いとみられる明治三十五年の統計を見てみましょう。
村岡町(旧七美庄) 水田面積 二百七十一町 産米高 四千四百十二石
この数値の三割引きが当時の生産高として大凡三千石、それをそっくり荘園として寄進するという行為はどういうことでしょうか。布施行(そふせぎょう)は仏教徒の信仰発露であるとはいうものの、この場合はそんな綺麗事では無くて、もっと現実的でした。
古代から中世に移るにつけ、土地所有の形態は小から大に変わり、律令による班田とは別に新しく開発された農地を確保しようとする農民は自衛の為に武力を蓄えるようになってきました。これが武士の発生事情です。
中世鎌倉時代になると、この潮流はますます勢いを強め、いわゆる一所懸命、文字通り己が権益を護る為に命がけであらゆる対策を講じます。そこで生まれたのが荘園寄進という便法です。
侵略者より格段に強大な権威を持つ公家や寺社に己が開拓した農地を捧げることで、その傘下に入り自分はその代官として管理運営に当たり、実質的な利益を確保する訳です。
七美庄の場合を見てみましょう。山奥のこの地でも時勢の波は中原と変わることなく押し寄せています。室町の初期、但馬の国は守護大名山名氏の領国となりました。山名氏は天下六十六ヶ国のうち十一か国を治めていたという、幕府きっての巨人ですから世に『六分一殿』と呼ばれますが、近世の初めまで二百年にわたって但馬の国を本拠としています。
但馬の国内には大化の改新(六四五)の際、この地に左遷された孝徳天皇の皇子表米王(ひょうめいおう)を祖とする太田垣・八木・田公(たぎみ)などが有力な国人(こくじん)として各地に蟠踞(ばんきょ)しておりました。その管内各庄に地頭(じとう)という幕府御家人が駐在し耕作者を取り仕切るのです。――泣く子と地頭には勝てぬ――ずいぶん高庄的な支配が行われたようですね。その地頭らが任地に定着するようになると領民を使役して懇田を拡張したり、隣接地を侵略したりと、私的財産の増殖に努めます。当然、他者との衝突が起きる訳で、初めのうちは訴訟や外交で対処したでしょうが自力では太刀打ちできぬ程強烈な相手になると、これを防ぐために中央の貴族や有名寺社に所属して保護を仰ぐ訳です。それが荘園寄進の実態です。
さて、七美庄では、次のように一庄のほぼ全域を妙心寺に寄進しました。
貞治三 | 一三六四 | 七美庄下方を比丘尼明瑚が妙心寺に寄進 |
応安三 | 一三七〇 | 七美上方を町経秀が妙心寺に寄進 |
応安五 | 一三七二 | 七美下方を多紀末利が妙心寺に寄進 |
応安六 | 一三七二 | 七美上方を町経秀が妙心寺に寄進 |
(この町氏・多紀氏は地頭クラスの身分であったようです。)
そこで妙心寺二世授翁宗弼は永和元年(一三七五)七美庄下方未国名に報恩寺なる一寺を設けて荘園管理に当らせます。そのころは仏教各宗ともに教線拡充の意欲が盛んで都鄙(とひ)ともに小規模寺院が数多く開創されました。七美庄だけでも十箇寺を数えます。もっともそれらはどれも村の辻堂に毛の生えた程度の簡便な造作だったでしょう。そうした中へ妙心寺直末の誇りをもって臨むのですから一般の寺より格段に充実した寺観をもっていたはずです。(このことも次章でいま少し詳しく検討します)
◎七美庄両名寄進状
長講堂領但馬国七美庄 上方内友真包弘両名可 寄進開山和尚塔頭微笑庵 也永代更不可有相違依 寄進状如件 応安三年六月廿三日 経秀花押 |
長講堂領但馬の国七美庄 上方の内、友真包弘の両名は 開山和尚塔頭(妙心寺)微笑庵に寄進すべく、 永代更に相違あるべからず依って 寄進の状件の如し 応安三年六月二十三日 (町)経秀花押 |
◎報恩寺置文
七美庄下方の内、報恩寺は老僧両親以下 亡魂菩提の資となし建立するところ なり格別相伝の地ならずいへども 後年住僧不在懈怠(けたい)の事あって 勤行退転に止(いた)るは塔主点検し器用の仁 を以て住持と定めらるべく子細なく 相承るべし 後昆の為卆筆の状件如 |
(卆=卒=終わる) |
永和改元十一月十八日 授翁宗弼 微笑庵禅師 |