1: 2009-04-04 (土) 11:40:54 admin ソース
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 +TITLE:花吹雪-室町山名氏
 +*梅津長福寺 [#k9f3eaa0]
 +文明五年(一四七三)三月 。
 +洛西梅津(現、京都市右京区梅津中村町)に甍(いらか)も高くそびえる花園上皇御願寺の
 +大梅山長福禅寺は朝から重々しい空気に包まれています。
 +客殿奥の一室に臥せった西軍の総帥山名宗全が今しも七十年の生涯を閉じようとしている
 +からです。
 +洛中洛外からの伝騎はいつもの通りあとを絶ちませんが、いずれも門前の衛士(えじ)に押
 +しとどめられて、乗馬を一町(一〇九m)ほど離れた松林に繋ぎ、
 +足音をひそめて大方丈(本坊)に置かれた本陣へ向かうのでした。
 +山内の正法・大慈・瑞光ら子院に分宿している西軍方の大小名も等しく客殿の物音に耳を
 +そばだてております。
 +応仁・文明の乱が勃発以来七年、山名軍は花の御所(将軍の御所)西隣の山名邸を本陣と
 +したので、そこを西陣と言い、軍勢を西軍と呼びます。
 +従う武士は十数万、全国から馳せ参じた強武者揃いです。対する東軍は細川勝元を中心
 +にこれまた十余万、合わせて三十万もの軍兵
 +がなだれこんでの攻め合いですから、花の都はたちまちに焼野が原となってしまいました。
 +『汝や知る、都は野辺の夕雲雀(ゆうひばり)、あがるを見ても、落つる涙は』
 +飯尾(いいのお)某はこう詠んで都の人々の悲しみのほどを訴えております。
 +そのころになると宗全は西軍の本陣をこの長福寺に移しています。
 +ここは都の西玄関です。山陰山陽を地盤とする宗全は、かねて戦術上の重要性からこの大
 +寺に目を着け、洛東南禅寺とともに山名氏の拠りどころとしていたからです。
 +居室の正面押板(床の間)には宋元舶載の古筆と思しい禅画の三幅対(さんふくつい・三本
 +で一組になった軸物)が掛けられ、その前に置かれた三具足 (香炉・燭台・花瓶)からは蘭麝
 +(らんじゃ・銘香)の煙がうっすらと流れています。
 +この頃から流行しはじめた東山文化の典型的な様式です。普通なら、このような場合は正
 +面に阿弥陀如来像を祭り、その御手から五色の綱を垂らせて病者に握らせます。仏のお迎
 +えを信じ極楽往生を確かなものとする臨終行儀なのです。
 +宗全は『わしは鞍馬山の毘沙門天じゃそうな。一休坊主がそう言いよった。毘沙門天ならわ
 +ざわざの来迎もいるまいよ』と笑いとぱしたということです。
 +しかし、かっては赤入道と渾名されるほど活力にみちた宗全の双頬は血の気を失っていま
 +した。
 +枕頭には禅の師であり善き友でもある南禅寺真粟院主の香林宗筒禅師(こうりんそうかん
 +ぜんじ・一説には大蔭宗松とも)や嫡孫政豊ほか身内の数人が沈痛な面持で宗全の顔を見
 +守っています。
 +「・・・・ムムウッ・・・・何処じゃな、ここは。ゆゆしげな武者どらが居並んでおじやるがーー。
 +オオッ、教豊(宗全の嫡男)ではないか、末座に控えたあの若者は・・・・。しきりに手招きをし
 +ておるわ。なるほど、あれの上座に空いた円座がひとつ。あそこがわしの席というわけか」
 +「・・・・ああ、父上(時熈)もおいでじゃ。祖父上(時義)も曽祖父(時氏)も・・・・。正面におわす
 +は太祖義範公か。すると此処は上野国山名館でもあろうか。
 +わしはとうとうあの地を踏むことなしに終わるかと思うておったが・・・・」
 +「侍て教豊、じきにまいる。まいるが、その前にひとつしておかねばならぬことがある。政豊
 +じゃ。政豊に氏の長者(棟梁・総領)の心構えを申し聞かさねばならぬ」


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