ページへ戻る

− Links

 印刷 

歴史沿革​/報恩寺 のバックアップソース(No.6) :: 東林山法雲寺のホームページ

xpwiki:歴史沿革/報恩寺 のバックアップソース(No.6)

« Prev[4]  Next »[5]
TITLE:幻の寺「報恩寺」
* 幻の寺「報恩寺」 [#z3eb6b98]
#navi("歴史沿革")
**お堂の云われ [#e86554d1]
村端のお堂にしては、丸く加工された立派な柱を使っていること、また柱には多くの穴が開いていること(作り直している?)等から、幻の寺・報恩寺の材木を再利用したお堂ではないかという説もある。

**「七美郡誌稿」より [#s48da0e2]
#ref(text.GIF,right,around,mw:240,「七美郡誌稿」より)
***書き下し [#y106413d]
按ずるに創建不詳と雖も天文年間、山本勘助晴幸武者修行中の工造と云う、或いは左甚五郎の工造とも古老の口碑あれども証拠とする處なし。また、或る説に葛畑村字神場の観音堂と同人の工造なりと云い伝う。
天正五年丑十月織田殿の隊長羽柴筑州、攻人諸方の寺々仏堂宇等悉く焼き拂わるると聞き及び、此の噂に村民共大いに驚き、村中総掛りにて取壊し、宮の奥谷に隠せしが、程なく僅かの勢にて来たりしを見れば羽柴殿には之れ無く、藤堂與右衛門、宮部善祥坊しばらく二百余騎の勢にて攻入れども堂は事無く、茲に因り元に如く建てる事能わずして、今に悉く堂の柱に穴ありと云う。

***大意 [#e09da9f9]
山本勘助、左甚五郎等の作という口伝えがあるが、証拠となるものは無い。
羽柴筑前守の但馬・中国攻めの際に、寺社等を焼き払うとの噂を信じて、村人がお堂を解体し隠したが、焼き払うようなことはされなかったので、その後、再び組み直したが元のようには上手く再建できなかった。柱に穴があるのはその為だ。
#clear
|#ref(http://www.houun.jp/uploads/photos/215.jpg,mw:200,報恩寺?01)|#ref(http://www.houun.jp/uploads/photos/216.jpg,mw:200,報恩寺?02)|
|CENTER:旧「報恩寺」の古材を再利用して立てられたのではないかと、言われている大糠地区のお堂||

**確たる証拠は無いのですが・・・ [#yd3cddc2]
-幻の寺といわれた報恩寺は、南北朝時代は花園妙心寺末の政所。
-村岡山名初代・豊国公(禅高)の墓所があり、江戸時代、山名家の京都屋敷の役目を担ったのが、妙心寺末の東林院。
-3代矩豊公が法雲寺に宛てた文書には、「山号は東林山に改めるが、寺名を改めず・・・」とある。(ほうおんじ→ほううんじ?)
-法雲寺の本尊は天台宗では珍しく「禅定の釈迦」(禅宗に多い)
確たる証拠は無いの山名家と妙心寺の深い繋がりが見て取れます。また、江戸時代、領地内の妙心寺所縁の寺を菩提寺と定め、その後藩主の信仰する宗派に改宗させたことも有っても不思議ではないかと思えます。
#navi("歴史沿革")

« Prev[4]  Next »[5]