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寺報・書籍​/法雲寺縁起​/年表 のバックアップソース(No.4) :: 東林山法雲寺のホームページ

xpwiki:寺報・書籍/法雲寺縁起/年表 のバックアップソース(No.4)

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|=年次|=西紀|=報恩寺・法雲寺関係|=関 連|h
|建武1|1334| |建武の中興。藤原藤房出家。(授翁宗弼か)|
|暦応1|1338| |足利尊氏室町幕府を開く。|
|康永4|1343|花園妙心寺開創(花園上皇御願・関山慧玄初代)。||
|康永6|1345|妙心寺二世授翁宗弼山内に微笑庵(政所)を建立。||
|貞治3|1364|但馬国七美庄下方を比丘尼明瑚が微笑庵(妙心寺)に寄進。||
|応安3|1370|但馬国上方(友実・胞弘名)を町経秀が微笑庵に寄進。||
|応安5|1372|但馬国七美庄下方(未国名)を多紀未利が微笑庵に寄進。||
|応安6|1373|但馬国七美庄上方(萩山名)を町経秀が微笑庵に寄進。||
| | |七美庄のほぼ全域が妙心寺微笑庵の荘園となる。||
|永和1|1375|但馬国七美庄下方未国名に授翁宗弼は報恩寺(荘園政所)を建立。||
|応仁1|1467|荘園制度崩壊|応仁の乱(十一ヶ年)|
|文明9|1477|武士層の戦国大名化|戦国時代(約百ヶ年)|
|天正1|1573|織豊政権・安土桃山時代|室町幕府滅亡|
|天正13|1585| |豊臣秀吉関白|
|慶長5|1600| |関ヶ原の戦い|
|慶長6|1601|山名禅高但馬国七美郡一円安堵され兎塚庄に陣屋を置く||
|慶長8|1603| |徳川家康江戸幕府開府|
|慶長10|1605|山名禅高花園妙心寺に東林院を建立||
|元和1|1615| |大阪夏の陣豊臣氏滅亡。元和偃武|
| | |幕府は禁中や諸大寺の伝統勢力を削ぐため各種の法度を発した。&br;特に臨済宗に厳しく紫衣事件を起こす。||
|元和4|1618|七味郡内の臨済宗寺院数か寺が転宗廃寺となる。&br;(報恩寺の名前は見当たらない)||
|寛永3|1626| |村岡山名初代禅高没。|
|寛永5|1628| |村岡山名二代豊政隠居三代矩豊(9才)家督。|
|寛永7|1630| |二代豊政没法雲院殿と号す。|
|寛永12|1635| |三代矩豊交代寄合衆に列する。|
|寛永19|1642| |矩豊初入部領内仕置を改める(23才)。|
| | |領主山名矩豊。法雲寺を菩提寺とし臨済宗から日蓮宗(法華宗)に改宗命ずる。&br;「法雲」の名の初出。||
|寛永21|1644|法雲寺初代日源没。&br;江戸碑文谷日映中興開山として入寺日映は法華経の権威で矩豊の師。||
|正保1|1644| |村岡町西口に厳浄寺を移す。|
|慶安1|1648| |村岡町東口に大運寺を移す。|
|寛文2|1662|法雲寺移遷事業終わる。||
|延宝2|1674|法雲寺本尊釈迦如来座像を造顕(禅宗様式踏習)。||
|貞享4|1687|法雲寺梵鐘鋳造鋳銘は中興日映受潤山法雲寺とある。||
| | |初入部以来50年経過領主矩豊も70歳の高齢となる。||
|元禄4|1691|領主矩豊の命により山号院号宗旨を改める。&br;東林山養安院法雲寺(天台宗)。||
|延淳2|1745|法雲寺の格式定まる寺領百石・用人席出礼格(家老待遇)。&br;山名家御霊屋を寺内に新設。||
|宝暦10|1760|現住秦侃法雲寺堂舎を再建。||
|天保15|1844|村岡大火に寺全焼(本尊仏と御霊屋は焼亡を防ぐ)&br;直ちに旧儀により再建着工。||
|明治1|1868| |新政府より「村岡藩一万一千石」公認。|
|明治2|1869|寺領返納法雲寺財政大打撃。|廃藩置県。|
|明治5|1872|仮戸長役場(後の村岡町役場)を法雲寺内に設置。||
|明治14|1881|村岡町役場新設。法雲寺より分離。||
|昭和27|1952|農地法により寺有田すべてを失うも寺院の伝統維持につとめる。||
|昭和50|1975|藩祖禅高公三五〇年祭記念事業として寺堂舎仏殿の大改修境内整備等を実施。||
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