#navi(寺報・書籍/山名赤松研究ノート/1号) *中世備後国と山名氏 [#m5ce5c05] RIGHT:''山名年浩'' 確かに、備後国は中世において山名氏の領国であった。しかし、本稿で明らかにされるように、一族内の複雑な要因によって支配権が変転する様は必ずしも闡明されてきたとは言いがたい。諸資料を整理して、この点をほぐしておくのがここでの目的である。 備後をめぐる山名氏の興亡は大きく三つの時期に区分して考えることが出来る。 第一。応仁の乱以前に沿ける備後攻略期。 第二。応仁の乱に溶ける、西軍と東軍の対立が備後において激化した時期。 第三。乱後の山名]族内の対立から戦国時代の直前までの時期、である。 **一、応仁の乱以前における山名氏の備後攻略 [#ta95768b] 遠く文応・文永期(一二六〇~七五)には、「山名権左衛門入道氏正なる者.・居りしが、弟備中に殺さる。後氏正が子・備中を討って、再び此の城(御調郡下津の桜山城のことか-筆者)に拠りし」(『姓氏家系大辞典」第三巻、太田亮著、角川書店、昭和三八年)という一文があり、これが備後における山名氏の存在を示す最も古い記述の一つと考えられる。 以後、山名氏が備後における支配の画期をなしたのは(南朝年号)正平一七年(一三六二)の時氏による備後攻略であった。 新田氏から独立した山名時氏の期には-一時、観 #navi(寺報・書籍/山名赤松研究ノート/1号)
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