3: 2009-09-10 (木) 09:41:32 admin |
4: 2009-09-13 (日) 16:51:11 admin |
| と、あって、山名の勝利に終った。 | | と、あって、山名の勝利に終った。 |
| つぎの合戦は明徳二(一三九一)年十二月三十日の明徳の乱である。「明徳記」から、 | | つぎの合戦は明徳二(一三九一)年十二月三十日の明徳の乱である。「明徳記」から、 |
- | 「赤松上総介義則一千三百余騎。二條猪熊、松文字書きたる大旗を真前に進めて申けるは、今朝の合戦は大内勢手を砕ぬ。当手の兵荒勢にて合力の為に馳向べき由仰下されつる上ぱ他人の軍を待つべからず、先一 | + | 「赤松上総介義則一千三百余騎。二條猪熊、松文字書きたる大旗を真前に進めて申けるは、今朝の合戦は大内勢手を砕ぬ。当手の兵荒勢にて合力の為に馳向べき由仰下されつる上ぱ他人の軍を待つべからず、先一番勢い懸人て、命を捨る軍とて旗を二條より南へ進て、くつばみを竝て待懸たり。山名中務大輔(注、氏家)五百余騎、早々猪熊を上に押寄て、赤松勢の真中へ、エイ聲を揚て切って入て、三引両の大旗、松文字書たる赤松旗と合つ別つ廻り逢い、破り破れつ入乱れて五六度が程揉合て勝負未だ見えざる処に、奥州(注、山名陸奥守氏清)の兵五百余騎、押小路より二條猪熊へ筋変(すじか)えざまに懸入て、息もつかせず揉ければ、人馬彌が上に死重て、血はタク鹿の河となりて紅波楯を流せば、屍は屠所の肉を積り、白刃骨を砕く。むざんと云もおろか也。されば上総介の兵は舎弟左馬助を始めとして、佐用、柏原、宇野、上村、櫛橋、宗徒の兵五十七人討れにけり。上総介の旗差も大勢の中に懸入て、旗をば竿に取添て散々に切で廻りけるが、奥州の旗差に馳合て是非なくムズと引組で、差違て二人の者同枕に死にけり。前代未聞の風情也。山名奥州、中務大輔両人の兵共入替入替揉ける間、上総介の兵は戦屈してあらけ立て、二条を東へ、猪熊を北へなだれ引たりける。 |
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| + | -中略- |
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| + | かかりける処に、赤松の上総介義則は一足も退ぞかず、二条猪熊岩神の前に?えつつ、返せいずくへ引ぞ。此陣を破られて後日、人に嘲られんぱ義則が不覚にて有べし。義則においては討死するぞ。左様に契らん人々よ、返せ返せと呼ければ、有野、喜多野、浦上を先として此彼より馳寄て、主従七騎轡を竝て敵重て押懸なば、互に手を取組で討死すべしと云儘に、思定て待懸たり。さこそ赤松上総介の兵は山名勢に打負て、引たりけるとは沙汰ありしかども、二条猪熊の破られずして、一旦引し兵共も又本陣へ馳集て、終に軍に勝ぬと天下に流布はしたりけれ」 |
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| + | と、あるから、まあ、引分けと言う処か。 |
| + | 次は悲劇の嘉吉の乱(一四四一)である。周知の事なれば、簡単に「嘉吉記」から、 |
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| + | 「赤松は定て諸大名寄せ来らん、一合戦して腹を切らんと待けれども、門外に人音もせず。播磨へ下り、城山白旙の城を拵て、討手の下向を待つ可しと、酉刻より油小路を出て真直に東寺へかかり、路次に手さす |
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